文・写真/鈴木拓也
南北朝時代、南朝方の後村上天皇と北朝の三上皇が寄寓したのが、大阪府河内長野市にある金剛寺(こんごうじ)である。とくに後村上天皇は、ここで政務を執り、月を愛で、心を慰めたという。そんな南北朝時代の深甚たる歴史が刻み込まれた金剛寺を訪れた。
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奈良時代、聖武天皇は、河内の渓谷に位置する天野山に寺院の開創を勅願し、行基菩薩が開山した。後に弘法大師空海が、高野山金剛峰寺と相比肩すべき河内における道場として、ここに金剛寺を創建する。
ところが、数百年の星霜を重ねて、伽藍は荒れ果て、見る影もない有様となった。これを、高野山出身の高僧阿観上人が復興した。在地有力者の寄進もあって、ここは密教寺院の体裁を完備するに至った。
後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒と南北朝期の動乱の際には、金剛寺も巻き込まれた。ある時など、鎌倉幕府側の軍勢が、金剛寺を確保しようとして現地の倒幕派勢力と矛を交えたが、これは「近日関東の兇徒が金剛寺に乱入して…」ではじまる楠木正成自筆の書状(重文)からうかがうことができる。また、後醍醐天皇を継いだ南朝の後村上天皇は、金剛寺の摩尼院を仮の宮居とした。
南北両朝の対立が解かれ、天下に太平が訪れると、金剛寺もようやく平和な時期を迎える。幸いにして応仁の乱や戦国時代をとおして兵火に遭わずにすみ、戦国覇者や商工業者らと交歓を重ね、宗勢をよく保持した。
江戸時代に描かれた金剛寺境内図を見ると、七堂伽藍を中心として百近い塔頭寺院が立ち並ぶ規模を誇っていたのがわかる。
現在は、そうした塔頭のうち3院が現存するのみであるが、中心伽藍はそのまま残されており、4つの国宝と37件の重文を擁する大古刹である。以下、若干を紹介したい。
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楼門(重文)を入ってやや歩き、右手に見えるのが食堂と金堂(いずれも重要文化財)である。食堂は、本来は食事・研学の場であるが、後村上天皇が一時(1354~59)政庁として用いたことから、天野殿とも呼ばれる。金堂は1178年に建立され、大日如来坐像を含む三尊像(国宝)を安置する。平成の大修理で、塗装は真新しくあざやか。
塔婆(多宝塔、重要文化財)も平安時代に建てられ、豊臣秀頼の代に大きく改造された。平成の大修理で、往時の美観が復活している。
真如親王筆の弘法大師御影を奉安し、1172年から今日に至るまで御影供が行われているのが御影堂(重要文化財)だ。これに近接する観月亭(重要文化財)とは、後村上天皇が月見の宴を催した場所である。
金剛寺に伝わる弘法大師像(重要文化財)は、高野山御影堂の弘法大師御影の第3転写本で、中興の阿観上人が金剛寺御影堂で祀った。昔から民衆の信仰を集め、寺宝中でも秘仏として扱われた。
また寺宝のひとつ「白銅鏡 花鳥文様」(重要文化財)は、硬度のある白銅(錫と銅の合金)の全面に山吹の花と葉を散らし、その中に2羽の鳥を配した美しい意匠の祭器で、鎌倉時代の作品とされている。
また中世の日本では、大寺院の僧坊で醸造される「僧坊酒」が、その品質の高さから貴顕の人々に愛好された。金剛寺も『天野酒』を醸造していたが、稀なる美酒として信長や秀吉はもちろん関東にまでその名が聞こえ、「天野比類無シ」と称賛されたという。
そんな『天野酒』は、享保年間に創業した西條合資会社が、金剛寺の好意を受けて1971年に復刻している。
ここ金剛寺のみどころは、伽藍の建築物だけでなく、本坊内の庭園・屋内にも数多く、いずれも長く記憶に刻まれる逸品ぞろいである。来訪のおりには、ぜひ本坊にも立ち寄られたい。
【金剛寺】
■住所:大阪府河内長野市天野996
■拝観時間:9:00~16:30
■入山料:伽藍は高校生以上200円、小・中学生100円。本坊は高校生以上400円、中学生200円、小学生100円(高校生以上のみ伽藍・本坊共通500円券あり)
■電話:0721-52-2046
■公式サイト:http://amanosan-kongoji.jp/
■アクセス:南海高野線・近鉄長野線「河内長野駅」から南海バス4番乗り場の「光明池駅前行」、「槇尾中学校前行」、「サイクルスポーツセンター行」のいずれかに乗車し、「天野山」バス停で下車。
文/鈴木拓也
2016年に札幌の翻訳会社役員を退任後、函館へ移住しフリーライター兼翻訳者となる。江戸時代の随筆と現代ミステリ小説をこよなく愛する、健康オタクにして旅好き。
※金剛寺蔵『弘法大師像』『白銅鏡 花鳥文様』(ともに重要文化財)は、2018年1月16日(火)~3月11日(日)に東京国立博物館 平成館(上野公園)で開催される特別展「仁和寺と御室派のみほとけ-天平と真言密教の名宝-」に出陳されます(会期中、展示替えあり)。