信長の天下統一戦の契機
これに関わって重要なのが、信長の天下統一戦の契機が天皇や将軍という伝統的な公儀権力との接触にあったとする見方である。下剋上の時代にあって、なおも伝統権力は国家統合の権威の象徴として、一定の役割を果たしていたのだ。独立的な地域国家がいくら版図を拡大したところで、決して天下統一の動きには結びつかないのである。
永禄11年(1568)9月に上洛して幕府を復活させ、朝廷を庇護した信長だったが、やがて将軍足利義昭と対立し、旧体制を否定することを開始した。下剋上と言われた戦国社会においても、身分差別は日常茶飯だったし、朝廷や幕府の権威は重んじられた。これに対して信長は、既得権の打破と門閥にとらわれない人材登用をめざし果敢に挑戦した。
信長は、父祖伝来の領地すなわち本領を守り抜くという中世武士の伝統的な価値観こそが、旧来の権威構造を再生産し、戦国動乱を深刻化させた根本原因であると判断した。それを打破するために、彼は中途採用の光秀や素性の定かでない秀吉を重臣に抜擢するなどして、家臣団に実力主義の重要性を繰り返し説き、常識化しようとしたのである。
諸大名は、安定的な地域支配を実現するために近隣大名との外交を有利に展開する必要があった。そのためには、幕府との関係を利用し地域社会において優位な地歩を確立せねばならなかった。特に毛利氏などの西国大名ではその傾向が強かったから、将軍義昭を支え、利用し、一定の範囲内で将軍の上意(命令)を考慮して行動したのだ。 地域社会の統合の動きから統一国家が誕生するという戦国大名領国制論に特有な自生的・単線的な思考では、信長や秀吉といった天下人がなぜ天皇や将軍といった既成権威を必要としたかが解けないのである。
それでは、なぜ分権から統一すなわち集権化へと大転換がおこなわれたのだろうか。それは、一見関係のないようにみえる信長の領地からは遠く離れた日本の周辺地域が求めたことでもあった。
かつて今川・武田・北条・上杉をはじめとする戦国大名たちは、合従連衡(がつしようれんこう)しつつ相互に領土協定を締結していた。しかし信長が台頭するとこれらは無効にされ、織田領に組み込まれていった。各地域における自生的な平和秩序は、信長の実力行使によって消滅していったのだ。
これに対して同時期の九州・四国・関東・奥羽などの周辺地域では、島津氏・長宗我部氏・北条氏・伊達氏などの大戦国大名が台頭しており、それにもとづく勢力地図の変化に伴って、劣勢の戦国大名が様々な思惑から信長に接近してきた。このような事態に対応して、信長は将軍相当者としての立場から、諸大名に対して停戦命令を発して国分(国境確定)を執行しようとしたのである。
信長が大坂本願寺と講和した天正8年以降、天下統一事業はそれまでの紛争当事者としての平定戦から、遠隔地の大名間の所領紛争への積極的な介入へと変化した。戦国時代の将軍が諸大名に停戦令を発していたことからも、これこそ実質的に将軍権力を簒奪した証左といってよいだろう。
この頃に、中国の毛利氏との停戦交渉がもたれ、四国では長宗我部氏と三好氏や西園寺氏との抗争に、九州では島津氏と大友氏との紛争に介入して、双方が和睦するように停戦命令を下した。停戦令といえば関白就任後の秀吉のそれが有名であるが、実は既に信長が発令していたことに着目したい。
ここからが、本格的な天下統一戦の幕開けだったのである。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。