鞆の浦の沼隈半島を舞台にお届けする『サライ』本誌の好評連載「謎解き歴史紀行〜半島をゆく」。歴史作家・安部龍太郎さんに同行する、歴史学者・藤田達生先生(三重大学教授)による歴史解説編は、専門家の間でも評価が分かれる「鞆の浦幕府」について、成立の経緯そして信長と対抗する毛利氏にとっての意義などについて多角的に解説していただきました。
鞆の浦の小松寺に入った義昭一行は、やがて後に鞆城が築城された城山に御所を設けた。
義昭が「鞆公方」とよばれた所以(ゆえん)である。現在、鞆の浦全体を睥睨(へいげい)するこの要害の地からは、香川県丸亀市から愛媛県今治市までを眺望することができる。鞆の浦のランドマークともいえるここを押さえるのは、当然といえよう。
御所に葺かれていたと伝わる大型の鬼瓦(桐紋、縦55㎝×横87㎝)が、鞆城跡に建設された福山市鞆の浦歴史民俗資料館に保管されている。もしそうだとすると、これに見合うだけの大規模で立派な建造物が御所に営まれていたであろう。
城山の中腹に残る「申明亭(しんめいてい)」といわれる場所には枯山水風の立派な庭園跡があり、義昭との関係が指摘されてきた。今回は、地権者の許しを得てはじめて拝見することができたが、庭石の配置にはなかなか興味深いものがあった。
御所とは指呼(しこ)の間(かん)、南方約300メートルの地に、鞆の浦を守護する大可島城があった。配置的に御所と当城は一体の関係にあったとみるべきである。城主は因島村上氏一族の村上祐康で、彼が義昭の直臣となって一行の警固にあたり、その恩賞として室町時代には守護や守護代クラスに対する栄典だった白傘袋(しろがさぶくろ)・毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)を与えられている。
義昭が鞆の浦を選んだ理由は、いくつかある。海賊との関連では、熊野三山との関係を推測することができる。天正元年(1573)に信長との対戦に敗れて紀伊に亡命した義昭は、興国寺に逗留した直後に熊野勢力と接触をもっているからである。
義昭は、鞆の浦一円が那智山御師の檀所だったことに目を付け、熊野の海賊衆の力を借りて、鞆の浦に移座したのではないか。なお鞆の浦の安国寺の前身金宝寺も、興国寺と同じく心地覚心を開山とする瀬戸内海地域の拠点道場だったことは、この仮説に合致する事実である。
義昭の随行者は、近臣・大名衆・奉公衆・奉行衆、同朋衆、猿楽衆、侍医、厩方など少なくとも50人以上、彼らの一族や家臣団も含めると総勢100人以上の関係者が、御所やその近辺で生活していた。また側室春日局(かすがのつぼね)や乳母をはじめとする女性たちも従っており、紀伊滞在時とは異なって本格的な幕府の様相を呈していた。
かつて足利義晴・義輝父子が、近江朽木(くつき)谷に亡命し、当地の奉公衆朽木氏から御所を提供されるなどの様々な援助を受けたように、義昭も毛利氏や河野氏などの西国大名ばかりか村上水軍をはじめとする瀬戸内海賊衆にも支えられた。
戦国時代末期においても、地方の武士にとって現職の将軍の権威は絶大なものだった。戦国大名が守護職をはじめとする官職を自らの権威づけに利用した結果、かえって室町時代の権威秩序が地域社会の村々にまでに浸透したからである。
義昭が、安芸郡山城(広島県安芸高田市)を本拠とする戦国大名毛利氏を頼ったのは、信長に勝利して帰洛を果たすためだった。当初、毛利氏は義昭の庇護に難色を示した。これは、中央の政局に関与するという危険を回避するためである。
しかし遅くとも、義昭が鞆の浦に移座した直後の天正4年5月までに、将軍の上洛戦への協力を決定している。それは、前年に大友氏による毛利氏包囲網が瓦解し、その脅威がなくなったことと、尼子氏再興をめざして執拗にレジスタンスを続ける尼子勝久をはじめ、播磨・丹波などの領国に近接する諸勢力が、信長に属したからにほかならない。主たる敵対勢力が、西方から東方へと移ったことへの対応でもあったのである。
副将軍に任じられた輝元は、義昭の発する御内書の添状を発給し、義昭の命令を上杉氏などの反信長派戦国大名や毛利氏家臣団に取り次いで、上洛戦に向けて行動を開始した。毛利氏は、将軍家を直接支えたのである。たとえば、天正4年6月に輝元は添状を認めて、熊谷氏をはじめとする重臣層に義昭の命令を通達している。管見の限り、輝元の添状発給数は、近臣の真木島昭光に次いで多い。
天正4年以降の毛利氏は、「鞆幕府」の副将軍として家格を急上昇させたのであり、単なる戦国大名ではなく、伝統的な「公儀」の一翼に属して諸大名と交わったことを正当に位置づけねばなるまい。この点については、従来ほとんど認識されてこなかったことを残念に思う。 これに関しては、天正7年3月16日付の書状で小早川隆景(毛利元就三男)が、義昭が鞆の浦に動座して毛利元就(もうりもとなり)・隆元父子を知らない遠国の戦国大名から音信が来るようになり、大変名誉なことであると述懐していることが参考になる(毛利家文書)。
急速に台頭し権力を強大化した毛利氏ではあったが、権威という点では出自が守護でも奉公衆(江戸時代の旗本に相当する)でもなかったことから追いついておらず、副将軍に就任することで諸大名が認める有力大名の仲間入りができたのである。戦国時代における権威と権力は、単純な正比例の関係ではなかったのだ。
義昭に日常的に近侍し、義昭の御内書の添状を作成したり使者の役割を果たした最も格の高い側近は、真木島昭光を筆頭に、一色昭秀と上野秀政の3名が中核であり、いずれも京都以来、義昭に従ってきた者たちであり、出自は奉公衆だった。
鞆の浦の義昭のもとに亡命した大名衆としては、北畠具親(ともちか)(伊勢国司家)・仁木義政(伊賀守護)・武田信景(若狭守護家)・内藤如安(丹波守護代家)・六角義堯(よしたか)(義治、近江守護家)などの、室町時代以来の国司・守護・守護代に連なる人々とその一族があげられる。彼らのなかには、六角氏のように義昭の上洛戦の先遣隊として出陣するなど、自らの家臣団を従えた者もいた。
確かに、義昭を頂点とした幕府構成メンバーの多くは信長から追放された血脈エリートたちだった。それ故に「鞆幕府」を政治的に評価できないとする意見もあるが、賛同しかねる。これについては、たとえば河野氏をはじめ島津氏や上杉氏などの守護系の諸大名やその重臣層から、「鞆公方」義昭に対して高価な進物がしばしば届けられていたことが参考になる。
将軍相当者信長と将軍義昭を奉じた毛利氏との激しい戦争は、天正4年から同8年の大坂本願寺との勅命講和までがピークだった。「鞆幕府」の実力は、当然のことながら段階的に評価するべきである。
この時期の義昭は、自らの外交能力によって戦国大名間の停戦や信長方の大名の寝返りを実現して、その軍勢を対信長戦に動員した。丹波の波多野氏・赤井氏、播磨の別所氏・小寺氏らが、さらに信長の重臣だった摂津の荒木氏が、義昭を奉じて大坂本願寺や毛利氏と連携して包囲網を形成したのである。
東国の武田氏や北条氏に北国の上杉氏も、これらの動きに呼応する。毛利氏は、義昭を推戴して信長と対抗することで、摂津・丹波以西で北四国も含み北九州にまで及ぶ、かつてないほどの広大な勢力圏を形成することができたのである。
天正6年7月、播磨上月城(兵庫県佐用町)に籠城した尼子勝久は、毛利氏の攻撃を受けて自刃し、重臣山中幸盛(鹿之助)は生け捕りとなり、鞆の浦の義昭の許に送られる途中、備中合(阿井)の渡(岡山県高梁市)で謀殺された。その首は義昭が実験したといわれ、鞆の浦の静観寺山門前には首塚が残り、同寺には幸盛の位牌も安置されている。この頃が、「鞆幕府」の絶頂期だった。
毛利氏勢力の陰(かげ)りは、天正7年の備前の宇喜多氏と伯耆の南条氏の離反で決定的となった。山陽路と山陰路に信長方の楔(くさび)が打ち込まれたからである。さらに「鞆幕府」の軍事力を考えた時、天正8年3月の勅命講和による大坂本願寺の信長包囲網からの離脱を、重大な画期とみるべきである。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。