文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)

1824年5月7日、ベートーヴェンの交響曲第九番、いわゆる「第九」がウィーンで初演された。引っ越し魔として知られるベートーヴェンには、ウィーンやその近郊に、第九を作曲した住居や着想を得たゆかりの地が数多く存在する。

初演から200周年の記念の年に、この名曲の作曲にまつわるゆかりの地を巡り、ベートーヴェンの人物像やその生活をひも解いてみよう。

ワイン好きのベートーヴェンが暮らしたワイン居酒屋

ベートーヴェンが第九を作曲し始めたのは1815年ごろとされ、約9年かけて完成させている。作曲の初期、1817年に住んでいたのが、現在は「マイヤー・アム・プファープラッツ」(https://weingut-mayer-am.pfarrplatz.at)という名の、ウィーン郊外にあるワイン居酒屋だ。「ホイリゲ」と呼ばれるオーストリア特有のワイン居酒屋は、すぐそばにあるブドウ畑で収穫されたブドウから作られるワインを出す、庶民的な店だ。

ベートーヴェンが実際にここに住んでいたのは短期間だったが、ベートーヴェンが大好きだったワインを今でも同じ店で楽しむことができるので、ゆかりの地巡りの出発点としてもふさわしく、地元の人に交じってクラシックファンの姿も見られる。

ホイリゲ「マイヤー・アム・プファールプラッツ」

自然と友人に囲まれた温泉地バーデンでの日々

第九の大部分は、ウィーンではなく、ベートーヴェンが保養のために訪れていた温泉地バーデンで作曲された。当時ウィーンから馬車で3時間ほどの距離にあったバーデンは、皇帝フランツ2世が好んで通ったことから「皇帝の保養地」とも呼ばれていた。

ベートーヴェンはバーデンに何度も逗留したが、1821~23年にかけては、「銅細工職人の家」の2階に間借りしていた。現在はベートーヴェンハウス(https://www.beethovenhaus-baden.at/)として博物館となっているこの建物は、牧歌的な中にも優雅さの漂う、歴史的保養地バーデンの当時の様子を今に伝えている。

バーデンのベートーヴェンハウス。

ベートーヴェンの住居は、玄関と小さな寝室と仕事部屋からなる3室だ。家具は当時のものではないが、散歩用の服装や帽子がかけてあり、今にもフラっと帰ってきそうな雰囲気が漂う。ウィーンから離れて羽を伸ばしつつも、1823年には、この場所で第九第四楽章の大部分を作曲した。

ベートーヴェンハウスの玄関から寝室を覗いて。

ベートーヴェンは、気難しく、付き合いを嫌ったというのが通説だが、50代で難聴も進んでいたこのころも、交友関係は比較的豊かで、甥のカールだけでなく、弟子のチェルニーや作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバーなどが訪れ、食事を共にした。

ベートーヴェンの日課は、夜明けとともに起き、昼過ぎまで作曲をしてから昼食を取る、というものだった。合間に半時間から1時間ほどの散歩に1、2回出かけた。散歩中も頭の中では作曲を続け、帰宅後それを書き付けた。

ベートーヴェンはこの仕事部屋で作曲を行っていた。

Beethoven-Haus Baden(ベートーヴェンハウスバーデン)
住所:Rathausgasse 10, 2500 Baden
https://www.beethovenhaus-baden.at/

バーデン滞在時の最もお気に入りの散歩道が、ヘレーネンタール(ヘレネ渓谷)だ。優しく流れる渓谷の谷川に、山上の廃墟。「木々が私に『聖なるかな。聖なるかな』と話しかけているようだ。なんて魅力的な森だろう! 筆舌に尽くしがたい、森の甘美な静寂だ」とベートーヴェンは書き記している。

ヘレーネンタールを流れる川のせせらぎが耳に心地よい。

この散歩道の中でも、最もお気に入りだった休憩場所の岩には、ベートーヴェンの記念碑が埋め込まれている。キラキラ光りながら流れる美しい谷川と、うっそうと茂る木々を眺めながら、作曲の着想を得ていた200年前の姿が目に浮かぶようだ。

ヘレーネンタールのベートーヴェン記念碑。

第九完成の地はウィーンの家

バーデンでの保養中に第九のほとんどを書き上げたベートーヴェンだったが、完成したのは1824年に住んでいたウィーンの家だった。

この家は、懇意にしていたピアノ職人ナネッテ・シュトライヒャーのピアノ工房や、定期演奏会が開かれたサロンから目と鼻の先の好立地だ。音楽におけるパートナーとしてだけではなく、家事や甥の教育のことまで相談に乗ってもらっていたナネッテの近所に住み、色々と生活や創作上のサポートを受けながら、第九を完成させたのだろう。

第九を完成させた家。
ブロンズの記念碑には、「1823/24年の冬に交響曲第九番をこの家で完成させた」とある。

第九初演と再演の地

1824年5月7日、第九が初演されたのは、現在のウィーン国立オペラ座の前身となる、ケルントナートアー劇場だ。コンサート専門のプロオーケストラが存在しなかった当時、第九のような大作を演奏しうる演奏家を集めるのは至難の業だった。オペラ座の演奏家や宮廷音楽家、アマチュア音楽家たちが、この日のコンサートのためだけに集結し、演奏を行った。

第九が初演されたケルントナートアー劇場は、数多くの名曲の初演の場となった。

2024年5~7月にウィーンの演劇博物館で展示されていた第九の手稿には、この初演後にベートーヴェンが書き付けたメモが残されている。ベートーヴェンはすでに完全に難聴であったため、聴衆の観客も耳に入らなかったというエピソードが有名だが、このメモは、完全な難聴では聞き取ることができない内容が記載されており、通説が覆される可能性もある。

ベートーヴェンによる第九手稿。

10年以上ぶりに舞台上に姿を見せたベートーヴェンに喝さいを送った観客の中には、シューベルトやチェルニーだけでなく、宰相メッテルニヒも交じっていたという。

第九初演は大成功に終わり、同月23日に、会場を王宮のレドゥッテンサールに移して再演が行われ、翌年にはロンドンとドイツ、1831年にはパリと再演を重ねた。こうして、交響曲第九番が世界に知れ渡ることとなる。

第九再演の地、王宮の大レドゥッテンサール。1992年火災のため大部分が焼失したが、改修後も国際会議やコンサート等で使用されている。写真は2022年、国会議事堂改修工事のため、この広間で臨時の国会が開かれていた時のもの。

* * *

ウィーン郊外に始まり、温泉保養地で佳境を迎え、ウィーン中心部で完成したベートーヴェンの第九。9年間にわたる作曲ゆかりの地を巡ると、ほぼ難聴な上、気難しく人付き合いを嫌ったといわれるベートーヴェンが、親しい友人たちとの交流や、自然からのインスピレーションを通して、作品を完成させていった道筋が見えてくる。

ベートーヴェンが第九の構想と共に歩いた散歩道を歩き、その甘美な静けさに耳を澄ますと、200年前にこの場で紡がれ、世界中に知れ渡った名曲の誕生の瞬間を、少し身近に感じられるかもしれない。

文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。歴史、社会、文化系記事を得意とし、『ハプスブルク事典』(丸善出版)など専門書への寄稿の他、監修やラジオ出演も。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。

 

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