文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)
オーストリアが誇る作曲家、ブルックナー。モーツァルトやベートーヴェンほどの知名度はないが、クラシック音楽ファンなら必ず耳にする、19世紀ウィーンで活躍した後期ロマン派の作曲家だ。ウィーンフィルのニューイヤーコンサートで、ブルックナーの曲を耳にした人も多いだろう。今年はこのブルックナー生誕200周年を祝い、オーストリア各地のゆかりの地で様々なイベントが催されている。
ブルックナーの音楽は、クラシックファンの間でも、長大でとっつきにくい、難解だというイメージを持つ人が多く、通好みとされている。しかし、先入観なしに目をつぶって聞いてみると、その地味な人生とは対照的な、壮大で華やかな交響曲に圧倒される。生誕200周年を記念して、ブルックナーの生涯に影響を与えた土地や建物を訪れつつ、寒村で生まれた少年が、皇帝一家に愛される晩年を送った、一風変わった音楽家の生涯をたどってみよう。
教師かオルガニストか?
若くして音楽家としてもてはやされたモーツァルトやベートーヴェンなどとは異なり、ブルックナーが交響曲を作り始めたのは40歳、作曲家として成功したのは60歳と、非常に遅咲きだった。
1824年、オーストリア中部にあるオーバーエースタライヒ州リンツ近郊の小さな村アンスフェルデンで生まれたブルックナー。教師でオルガニストだった父を12歳の時に亡くしたのち、ザンクト・フローリアン修道院の寄宿学校に預けられ、実質ここが30歳になるまで、ブルックナーの人生の中心となる。
ザンクト・フローリアン修道院は、のどかな農村風景の中でひときわ目立つ、宮殿のように壮麗な修道院だ。内部には中学校・高校の寄宿学校があるだけでなく、豪華な図書館や大理石の間、ローマ教皇も滞在したという部屋もある。この中でも最も印象に残るのが、白と金色を貴重としたバロック様式の教会だ。この地方におけるキリスト教の権力と富の大きさがうかがい知れる。
田舎の村出身の少年にとって想像もつかないような豪華なこの教会で、修道院の少年合唱団に所属していたブルックナーは、勉学の傍らミサ曲を歌唱し、音楽の才能を磨いてく。生活のために教師という職業を選び、母校の教師となった後、27歳の時には修道院のパイプオルガンを演奏するオルガニストを兼任するようになる。本業教師、副業オルガニストという二足の草鞋だ。
遅咲きの作曲家
ブルックナーが完全に職業音楽家として生活できるようになるのは、31歳の時にリンツ大聖堂のオルガニストになってからだ。ここから作曲技術を学び、40代で最初の交響曲の初演にこぎつける。
45歳の時、ブルックナーは恩師の後任として上京し、ウィーン国立音楽院の教職に就く一方、ウィーン近郊の修道院でオルガニストを務め、その後宮廷オルガニストとなる。作曲を始めてからも、主な収入源はオルガン奏者と音楽教師だったため、二足、いや三足の草鞋生活は変わらない。即興演奏に定評のある当代一の名オルガニストと称され、フランスやイギリスへのコンサート旅行も行ったため、生前は「作曲家」としてではなく「オルガニスト」ブルックナーとして彼の名を知る者も多かった。
作品としては、生涯で交響曲を9作品(第9番は未完)と多数の宗教音楽を作曲した。60歳になってようやく交響曲第7番が大成功を収め、さらに、聖歌「テ・デウム」は、同時代の宗教合唱曲の最高峰と称されるようになる。修道院で育ったことで培われた信仰心と、パイプオルガンの即興演奏と共に生きてきた前半生からも、彼の作品には、宗教性と共に、オルガン的発想が織り込まれている点が特徴的だ。
ブルックナーはハプスブルク家にも愛されていた。皇帝フランツ・ヨーゼフは「テ・デウム」に感動して勲章を授けたほか、皇帝の娘マリー・ヴァレリーは、特にブルックナーのオルガン演奏を愛し、避暑地バート・イシュルでの自らの結婚式のオルガン演奏を依頼した。
ウィーンに住居を移してからも、ブルックナーの心は故郷のオーバーエースタライヒ州にあった。夏の休暇を友人の住む町シュタイヤーで過ごし、音楽家たちと交流しながら町のパイプオルガンの演奏をし、交響曲第8番、第9番の作曲を行った。都会よりも田舎の素朴さを愛したブルックナーらしいエピソードだ。
一方ウィーンでは、引っ越しを繰り返したモーツァルトやベートーヴェン、貴族さながらの豪華な部屋に住んだシュトラウスとは対照的に、18年間同じ建物の5階に住み続けたブルックナー。晩年は階段の昇降が困難になったため、皇帝自ら、ベルヴェデーレ宮殿の職員用の住居を提供した。目の前の宮殿には、後の皇位継承者フランツ・フェルディナントが住み、多数の芸術作品が収められているという、驚くべき立地だ。
「オルガンの真下に埋葬されたい」
生涯オルガニストとしての天職を貫きつつ、作曲でも偉業を遺したブルックナーは、皇帝一家に惜しまれながら、1896年にベルヴェデーレ宮殿横の住居で一生を終える。葬儀はカールス教会で執り行われ、現在も入り口に「テ・デウム」の一節が刻まれている。
ウィーンで活躍したほとんどの音楽家が、ウィーン中央墓地の名誉墓地に埋葬される中、ブルックナーは本人の希望で、異例の墓所に眠っている。10代から20代を過ごした、あのザンクト・フローリアン修道院の教会のオルガンの真下だ。
ほとんど人の訪れることのない、静けさに包まれた修道院教会で、煌めく金と白の装飾に囲まれ、愛したパイプオルガンの真下で眠るブルックナー。田舎生まれで、地味で遅咲きだった彼の音楽に、正反対な煌めく壮大さが満ちているのは、この壮麗な教会で演奏された宗教音楽と、修道院生活で育まれた信仰のためだったのかもしれない。
ブルックナーが愛した故郷近辺のゆかりの地を訪れた後に、再び目をつぶってウィーンフィルの演奏する彼の曲を聴くと、長大で難解に思われた彼の作品が、不思議と身近に感じられる。生誕200周年を機に、「地味さ」と「壮大さ」という二つの相反するイメージを併せ持つブルックナーを、ゆっくりと味わってみてはいかがだろうか。
Stift St. Florian(ザンクト・フローリアン修道院)
住所:Stiftstraße 1, 4490 St. Florian
https://www.stift-st-florian.at/
文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。歴史、社会、文化系記事を得意とし、『ハプスブルク事典』(丸善出版)など専門書への寄稿の他、監修やラジオ出演も。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。