文・写真/ブルーム知央(海外書き人クラブ/ニューヨーク在住ライター)

ホイットニー美術館7階常設展示場に飾られるデムスの2作(著者撮影)

ハドソンリバーに面した大きな窓にほど近い、ひっそりした壁にその絵は飾られている。長辺1メートル足らず。大きなメタルでできた不気味な工場のような建物の後ろから、なにか神々しい光が指している悲しげな色使いの油絵。

この絵を描いたのは、チャールズ・デムス(※) Charles Demuth(1883 – 1935)という名の若きゲイの芸術家であった。

彼が若くハンサムな新進芸術家として活躍した1920年代のニューヨークは、第一次大戦後の好景気と産業の発達によりアメリカ文化が大きく花開いた時代だ。「華麗なるギャツビー」のスコット・フィッツジェラルドやヘミングウェイ、アメリカモダニズムの母と言われた画家ジョージア・オキーフらは皆、この時代の寵児である。

ジャズを聞かせる高級クラブが数多くオープンしたのも1920年代だ。その一つ、ハーレムの「コットン・クラブ」からはデューク・エリントン、ビリー・ホリデイなどのちの歴史に名を残す多くのジャズミュージシャンが誕生した。

「狂騒の20年代」、またはフィッツジェラルドが「ジャズエイジ」と名付けたきらびやかな時代。多くのLGBTQが移り住み、革新的アートの中心地と言われたグリニッジビレッジで自由な日々を満喫していたデムスだが、その頃はまだ不治の病とされていた糖尿病を発病してしまう。初期インスリン療法で命をとりとめたものの体力の衰えは著しく、打ちひしがれて生まれ故郷のペンシルバニア州ランカスターに戻ることとなる。

電気のない暮らしを今でも頑なに続けるアーミッシュの集落にほど近いランカスターは、極めて保守的な農牧地帯。そんな故郷では自分がゲイであることをふたたびひた隠しにし、ニューヨークでの奔放な生活から一変して自分と周りに嘘をつきながらの窮屈で寂しい暮らしを余儀なくされてしまった。

「マイ・エジプト」 Charles Demuth, My Egypt, 1927 
(写真提供:ホイットニー美術館プレス資料より)

デムスの上の絵は、この時代に生まれたプレシジョニズム Precisionism という幾何学的テクニックを用いており、直線が生み出す奇妙な静止感が観るものをなにか落ち着かない気持ちにさせる。タイトルは「マイ・エジプト(私のエジプト)」。

描かれているのは家畜のための巨大なサイロだ。聳え立つメタルの圧倒的な存在感がエジプトのピラミッドを示唆しているようと解釈する人も多い。急速な産業の発展に人間たちがまるでピラミッドを築いた奴隷のように支配されているという社会的批判をほのめかしているのだろうか?

それとも、紀元前1200年前のユダヤ人の「エジプト脱出」、奴隷として従属させられていたユダヤ人たちの史実に準えて、故郷での暮らしを自分の意思に反して閉じ込められているユダヤ人にとっての「エジプト」のようだと示唆したのだろうか?

左上からさす神々しい光の意味は? 自身がゲイであることの許しを神から与えてほしいという宗教的な意味合いがあるのか? 糖尿病で日々衰えていく体にいずれ天に昇っていく自分の姿を見たのだろうか……?

結局、彼はその謎を誰にも明かさないまま他界してしまった。

「マイ・エジプト」を描いた8年後に、デムスはランカスターで息を引き取った。最後に仕上げた作品にはやはり家畜サイロや煙突が鋭い直線で描かれ、「After All(結局は)」というタイトルにひとりランカスターで死にゆく無念さとあきらめが凝縮されているかのようだ。

死後には、華やかな時代をグリニッジビレッジで共に過ごしたジョージア・オキーフにほとんどの絵画を遺した。自己の才能と煌びやかな過去。ランカスターという「エジプト」に閉じ込めながらも彼の心は最後までジャズが流れる20年代のニューヨークにあったに違いない……。

観察すればするほど、絵の各所に様々な「ほのめかし」が隠されたデムスの「マイ・エジプト」。展示室の構成も憎く、ちょうどこの絵の中の光と同じ方向に左側の大きな窓からほんのりと太陽光がさす配置になっているのだ。

はなやかな時代を共に過ごし、生涯を通じてデムスと親友であり続けたジョージア・オキーフの代表的作品
「サマーデイズ」
Summer Days (C) Georgia O’Keeffe Museum / Artists Rights Society (ARS), New York 
(写真提供:ホイットニー美術館プレス資料より)

デムスとオキーフの絵が展示されているのは、アメリカンモダンアートの秀作を多く所有していることで世界的に有名なホイットニー美術館。人種問題、LGBTQ、政治的メッセージなどからあえて目を背けず、ときにかなり異端でアバンギャルドな展示が行われることから地元ニューヨーカーに特に人気がある美術館。日本でもよく知られるアンディ・ウォーホルやエドワード・ホッパーの作品も多く常設展示されており、訪れるニューヨーカーの足は絶えない。

ハドソン川に沿って建つ美術館の白い建物。ミートパッキング地区を見下ろす航空写真(写真提供:ホイットニー美術館プレス資料より)

展示室から重いガラスのドアを開けるとマンハッタンを一様に見渡せるテラスに続く。左手はミートパッキング地区、その名の通り100年前には肉工場が並んだ。衛生と治安の悪い地区として知られたこの地域は、ニューヨークが誇る空中庭園ハイラインのスタート地点として生まれ変わり、付近にはおしゃれな店やレストランが立ち並ぶ。

正面入口すぐそばのカフェ部分に展示された鉄格子を使った新進アート(写真提供:ホイットニー美術館プレス資料より)

テラスの右側には、チェルシー地区の1ブロックすべてを占めるグーグルニューヨーク本社の大きなレンガの建物が見え、お昼時にはエンジニアらしき若い人たちがカジュアルな服装で携帯の画面を見ながら足早にビルから出てくる姿が望める。この100年でアメリカは大きく変わったのだ。この時代に生まれていたなら、デムスは自身のジェンダーアイデンティティをかたくなに隠す必要もなかった。

風が下からふき上げる美術館のテラスに立ち、この忙しい町を見下ろしながらアメリカの近代史に思いを馳せてみるのもニューヨーク観光の醍醐味かも知れない。

※元々ドイツ語由来の名字であるDemuthは、デムース、デミュース、ディーミスなど様々に発音されますが、この記事では日本で一般的に使われている「デムス」に統一しました。

ホイットニー美術館 Whitney Museum of American Art 
9 Gansevoort Street, New York
地下鉄A・C・E線14ストリート(14 St)駅・L線8アベニュー(8 Av)駅から徒歩5分
月、水、木 10時30分~18時、金 10時30分~22時、土・日 11時~18時
火曜定休
入場料25ドル、ただし金曜日19時以降は入場料は任意の金額で入場できます(2024年4月現在)。1時間前くらいから行列ができるのでお早めに。1階に新しくオープンしたカフェ(9時〜18時)では、新進アーティストによる建造物のアートを楽しみながら軽食やデザートを楽しめます。訪館者はチケット持参で10%引きになります。
https://whitney.org/

文・写真/ブルーム知央(海外書き人クラブ/ニューヨーク在住ライター)
大学卒業後東京で外資系企業勤務を経てカリフォルニア州にてMBA(経営学修士)を取得。大手通信会社のファイナンスオフィサーの職を経て現在はブロガー、ライター、翻訳家として活動中。ニューヨーク郊外在住。世界100カ国以上の現地在住日本人ライターの組織『海外書き人クラブ』(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。

 

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