文・写真/佐藤モカ(海外書き人クラブ/イタリア在住ライター)

18世紀、ヴェネツィア。

黄金期にはアドリア海を我が物とし、海の覇者として栄華を誇っていたヴェネツィア共和国だが、18世紀にはオスマン帝国との戦争に疲弊し、かつての輝きを完全に失っていた。

そんな黄昏のヴェネツィアで、一人の男が脱獄不可能と言われていた厳重に監視された監獄から、脱獄に成功した。

水の都、ヴェネツィア。その唯一無二の美しさで、世界遺産になっている。

男の名は、ジャコモ・カサノヴァ。

数々の女性遍歴で稀代のプレイボーイとして後世に知られる色男である。ベッドを共にした女性はなんと1000人とも言われ、現代において「彼はカサノヴァだ」と言えば異性にモテる浮気者・放蕩者といったネガティブな意味になる。見た目は良くてもどちらかと言えば頭が悪い、浮ついたダメ男のイメージを持っている人も多いのではないだろうか。

しかし同時代を生きた人々には、カサノヴァはまったく異なる評価をされていた。博識で有能。才能と魅力に溢れ、人々を魅了する謎めいた男。一体カサノヴァとは、どんな人物だったのだろう。

カサノヴァの人生を紐解くのは、決して楽な作業ではない。まず肩書が多すぎる。数々の著作を持つ作家であり、劇作家。若くして法学博士号を取得し、教会の法律実務を担当していたこともあるし、ビジネスマンや外交官としても活躍している。ヴァイオリニストとして職を得ていた時期もあるようだ。更には薬学にも深い知識を持ち、魔術師だと囁かれることもあった。

彼の巻き起こした奇想天外な出来事は、挙げればキリがない。行く先々で何かしらの事件を起こすお騒がせ者だったようだ。

しかし、彼の医学知識に命を救われたことで信奉者となった貴族マッテオ・ブラガディンのように、彼の魅力に取り憑かれて強力なパトロンとなる人物は決して少なくはなかった。どこにいても話題に事欠かない、人々を引きつけるウィットに富んだ会話術を持った男だったことは間違いない。

カーニバルの時期のヴェネツィアでは、当時の貴族のような衣装を着た人々が優雅にカフェを楽しむ姿が見られる。

そんなカサノヴァだが、1775年、30歳の時に逮捕され「ピオンビ」と呼ばれるヴェネツィアの牢獄に収監された。罪状については諸説あるが、結局は奔放すぎるがゆえに敵も多かったということなのだろう。秘密結社であるフリーメイソンの一員であったことも、問題視された。

ピオンビ、イタリア語で鉛を意味するこの監獄の名は、屋根を鉛で覆っていたことに由来する。鉛は熱伝導率が良く、冬は寒く夏は暑い過酷な環境だったようだ。

貴族のパトロンから贅沢を教えこまれていた洒落者のカサノヴァにとって、この監獄での生活が耐え難いものだったことは想像に難くない。収監されてすぐに脱獄の計画を練り始め、翌1756年の秋にはまんまと脱獄に成功した。

鉛の監獄の内部の様子。石は冷たく、無情なほど分厚い。

脱獄の経緯については、彼の著作である「ピオンビからの逃亡」に詳しい。それによれば、同じく服役中だった修道士が開けた天井の穴から屋根へと出て、明かり取りの窓から隣の建物内部に侵入し、一般人のフリをして何食わぬ顔で外に出たというのだ。

カサノヴァが収監されていた監獄は、豪奢なドゥカーレ宮殿とつながっている。つまり、彼が侵入した隣の建物とは、当時の国家元首の公邸であり政庁でもあったドゥカーレ宮殿を指している。そんな警備の厳しい建物に屋根づたいに忍び込み、途中で通行人や政庁の職員とすれ違っても動じずに、逃げおおせた大胆不敵さはさすがとしか言いようがない。

豪華絢爛なドゥカーレ宮殿。ドゥーカと呼ばれる国家元首の公邸であり、当時のヴェネツィアの政治の中心地である。

しかしながら実際に現地を訪れてこの目で監獄を見てみると、天井に穴を開けたというカサノヴァの記述には大きく疑問が残る。石造りの監獄は重苦しく、天井に手が届くとも思えない。ましてやピオンビはその堅牢さと厳重な監視体制で有名な監獄だったのだし、実際にカサノヴァ以外にこの牢獄から脱獄に成功した者は長い歴史の中で他にいないのだ。

鉄格子の向こうには、簡素な石と木のベッドが複数台並んでいる。

カサノヴァは数々の自叙伝を書き残しているが、それらにはすべてが事実とは言えないところがある。関係した女性たちや貴族たちのプライバシーの保護のため、もしくは天性のエンターテイナーとして様々な脚色を加えたため、彼の自伝は事実を元にしていても真偽の程が怪しいものが多数ある。

誰かの手助けで逃亡できたのだとしても、まったく異なる逃亡劇をでっち上げて協力者の影を隠してしまうことなど、カサノヴァならばいとも簡単にやってのけるのではという気がする。

そんな推測を裏付けるように、この脱獄以降にカサノヴァがヴェネツィア政府の秘密工作員、いわゆるスパイとして活動していたことが公文書の記録からわかっている。脱獄後はヨーロッパを転々としていたカサノヴァだったが、18年後にようやくヴェネツィアへと帰国した。帰国が許されたのは、スパイとしての功績による恩赦だったという。

こうした一連の流れから、社交界に自然と溶け込んでいくカサノヴァの才能を見込んだ誰かが秘密裏に彼と契約を交わし、スパイとして脱獄させてあえて海外を放浪させたのではないかという説もあるようだ。確かに、スパイになることを条件に逃亡を見逃されたというほうが、重苦しい石と鉛の天井を削って穴を開けたと言われるよりも、いくらか納得がいく。

ドゥカーレ宮殿があるサンマルコ広場は、世界中から観光客が集まる名所だ。こんな場所のすぐ近くに監獄があったことに驚く。

女優を巡ってピストルで決闘したり、事業で成功して大儲けしたり、破産して全財産を失ったり。はたまた社交界に積極的に出入りして重要人物と次々に謁見したり。ヨーロッパ放浪中のカサノヴァのエピソードも、期待を裏切らない派手さである。もしかしたらスパイ活動をごまかすためにあえて派手に動いていたという可能性もあるが、彼ほど嘘と秘密と虚飾にまみれた人物だと、もはやどれが真実の顔なのかは藪の中だ。

カサノヴァが収監されていたピオンビは、現在は美術館となっているドゥカーレ宮殿から入って見学することができる。世界でも有数の美しい広場であるサンマルコ広場に面したこの宮殿と、鉛の監獄とをつなぐのが、「ため息橋」と呼ばれる白い橋である。橋は内部が渡り廊下になっており、ドゥカーレ宮殿からこの橋を渡った途端に空気が重苦しく変化するのを感じた。

ため息橋の下をゴンドラで通る人々。奥に見える白い橋が、ため息橋だ。

恋人同士が日没時にこの橋の下でゴンドラに乗ってキスをすると永遠の愛が約束される……そんなロマンチックな伝説がある観光名所としてよく知られるためいき橋だが、実は宮殿内の裁判所から囚人を牢獄へと移送するための橋だったのだ。愛の伝説が広まったために甘いため息だと勘違いされることが多いが、名前の由来となったため息とは、囚人たちがついた悲しみのため息である。

ため息橋の隙間から見た外の景色。カサノヴァもここから、ヴェネツィアの美しさを目に焼き付けたのだろうか。

橋の上から最後にひと目、夢のように美しいヴェネツィアの景色を眺め、外の世界に別れを告げる。カサノヴァもきっとこれと同じ景色を見たに違いない。彼の目には、ため息橋からの眺めはどのように映っていたのだろう。

Palazzo Ducale(ドゥカーレ宮殿)
住所 Piazza San Marco, 1, 30124 Venezia
https://palazzoducale.visitmuve.it

文・写真/佐藤モカ(海外書き人クラブ/イタリア在住ライター)
2009年よりイタリア在住。イタリア在住ライターとして多数の媒体に執筆する他、マーケティングリサーチャー、トラベルコンサルタント、料理研究家など幅広く活動。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/

 

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