文・写真/佐藤モカ(海外書き人クラブ/イタリア在住ライター)
フィレンツェ中央駅から中心街へと向かう大通りに、一つの素朴な教会が建っている。
サンタ・マリア・マッジョーレ教会。8世紀から千年以上もの間フィレンツェの街を見守ってきた教会だが、ルネサンス期の教会のような華やかさはなく、目を向ける人も少ない教会である。
そんな訪れる人も少ない地味な教会の壁に、奇妙なオブジェが一つ、飛び出している。目立たないのでよくよく目を凝らして探さないと見つからないが、女性の白い頭が埋め込まれているのだ。
茶色い石造りの教会の壁からにょっきりと突き出した頭は、教会の飾りとしてはあまりにも周囲と調和しておらず、うつろな目をして胴体を持たない顔は不気味な雰囲気を漂わせている。
地元民はこの女性のことを、伝説に基づいて「ベルタ」と呼ぶ。これは未完成の装飾などではなく、14世紀にとある錬金術師の怒りを買い、黒魔術によって頭部を石化されてしまったベルタという名の女性の末路だと言うのだ。
1327年9月。残暑厳しい暑い日に、この教会の前を一人の男が処刑場へと運ばれていた。
裁判によって処刑が決まったこの男の名は、チェッコ・ダスコリ(Cecco d’Ascoli)。本名はフランチェスコ・スタビリというが、当時はあだ名で呼ぶのが一般的で現在でもこちらの名で広く知られている。
チェッコは大学で教鞭を取っていた知識人で、詩人であり、医者であり、天文学者でもあった。そして、魔術に通じた錬金術師であるとも噂されていた人物だった。
教会の下を通りかかった時、暑さに耐えかねたチェッコは一杯の水を恵んでくれるように頼む。その声を聞きつけたのが、教会で下働きをしていた女ベルタだ。
当時の人々にとって、宗教裁判で有罪となった錬金術師は悪魔に通じる恐ろしい存在であった。錬金術師はどんな物質も変化させる魔法を使うことができると信じられていたのだ。
ベルタは教会の窓から頭を出してチェッコの護送を見つめていたが、彼が水を欲しがったのを聞いて魔術を使って逃げるつもりだと思った。そしてとっさに叫んだのだ。
「水なんか渡したら、それを使って逃げるつもりだろう!絶対あげないよ!」
その容赦ない言葉を聞いたチェッコは、教会を見上げてベルタの顔を見た。
「よかろう。だがお前はそこから頭が動かなくなるだろう!」
チェッコは黒魔術を放ち、ベルタの頭は瞬時に白い大理石へと変化した。
その日チェッコは処刑されたが、水を恵んでやることを拒んだベルタの頭部は石化したままだった。
彼女は永久にそこから動けない呪いをかけられてしまったのである。
ベルタに呪いをかけた錬金術師チェッコとは、どんな人物だったのだろうか。
意外なことに、チェッコは大学の医学部で天文学を教えていただけでなく、カラブリア公の宮廷医に任命されたこともある超エリートだ。
彼の最も有名な著作「アチェルバ」は、宇宙論、自然哲学、人類学の概念を網羅しており、イタリア語の父と名高いダンテともライバル関係にあったという。
一般的に、魔女や魔法使いといえば人目を避けて森に住んでいる世捨て人というイメージがあるが、彼の場合は誰もが認める教養人であり、多くの人に支持され将来を約束された華々しい人であった。
そんなチェッコが最初に教会から有罪判決を受けたのは1324年。
しかしこの時のチェッコは厳しい罰は受けたものの、翌年には学生や同僚たちからの強い支持によって再び大学に復帰し、なんと昇進まで果たしている。
そんな彼が二度目に捕らえられたのは1327年。カラブリア公カルロの宮廷医だった彼は、公の娘であるジョヴァンナ(後のナポリ女王ジョヴァンナ1世)を占星術によって占い、彼女は将来人々を殺す悪の女王になると言ったことで公の不興を買ってしまった。
更には、キリストの生涯までも占星術によって説明できると言ったことで再び宗教裁判にかけられ、今度は火炙りという重い決定が下ったのだった。
チェッコは世界のできごと、人の一生など、あらゆる事象が占星術によって説明できると信じていた。エリートであったにも関わらず錬金術師として黒い噂が絶えなかった背景には、こうした彼の占星術への情熱があったのだろう。
彼は宇宙や自然は人間を超越した存在であると考え、その影響はキリストでさえ逃れられないものだと確信し、自然科学を学んでいた。人々は彼の研究を魔術や錬金術と呼んだが、彼にとってそれはれっきとした科学だったのである。
固い信念を持っていたチェッコは宗教裁判においても自分の意見を曲げず、こう言い放った。
「私はそれを言った。私はそれを教えた。そして私はそれを信じている!」と。
こうしてチェッコは火炙りの刑に処された。
チェッコにまつわる奇想天外な伝説は、他にもたくさんある。
悪魔と契約することで橋を一日でかけたとか、悪魔に嵐を起こさせて土砂崩れでふさがった道を元に戻したとか。面白いのは、ベルタの頭も橋も実在しており、伝説と現実の建造物がうまくリンクしていることだろう。
科学が発達した現在では、あらゆる事象を星の動きで説明しようとしたチェッコの信念は、信頼性に欠けるファンタジーと言わなければならないだろう。
しかし彼の生涯を紐解いてみると、この頑固な男には科学では証明できない特別な魅力があったように思えてならない。
結局チェッコという男は黒魔術を使う錬金術師だったのか、それとも信念を貫いた科学者だったのか。今となっては真相は藪の中だ。
しかし到底信じられないような伝説も、フィレンツェという街の魅力が加わるとファンタジーだと笑えない気持ちになってくるから不思議である。
真相がどうであれ、彼が石にしたというベルタの頭はこれからもずっと、あの場所で道行く人々を見つめ続けていくことだろう。
Chiesa di Santa Maria Maggiore (サンタ・マリア・マッジョーレ教会)
住所 Vicolo di Santa Maria Maggiore, 1
文・写真/佐藤モカ(海外書き人クラブ/イタリア在住ライター)
2009年よりイタリア在住。イタリア在住ライターとして多数の媒体に執筆する他、マーケティングリサーチャー、トラベルコンサルタント、料理研究家など幅広く活動。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)