文/ケリー狩野智映(海外書き人クラブ/スコットランド・ハイランド地方在住ライター)

1841年12月26日にスコットランド東部のアバディーンシャー州に英国沿岸警備隊長の息子として生まれたリチャード・ヘンリー・ブラントン(Richard Henry Brunton)は、明治政府のお雇い外国人として日本に滞在した7年半の期間に、30基近くの西洋式灯台と灯船2艘などの建設を指揮した土木技師であり、その功績から「日本の灯台の父」と呼ばれている。横浜では、外国人居留地の測量や、日本初の西洋式街路である日本大通りの設計・施工、横浜公園の設計・施工、下水整備など、横浜市街の整備・近代化に大いに貢献したことから、「横浜まちづくりの父」としても称えられている。横浜開港資料館には、ブラントンに関する資料が数多く所蔵されているとのことだから、横浜に行く機会があったらぜひとも訪問してみたい。

横浜公園内にあるリチャード・ヘンリー・ブラントンの胸像。

灯台建設の経験ゼロで技師長に

ブラントンは明治政府のお雇い外国人第一号とされているが、その実、彼の日本派遣は徳川幕府の依頼によるものだった。

幕末の混乱期。列強諸国との間で締結された貿易協定で、交易船の出入安全を確保するために港湾施設の整備と西洋式灯台建設の義務を負っていた幕府は、1867年6月に駐日英国公使ハリー・パークス(Harry Parkes)を介し、スコットランドのエディンバラを拠点とする灯台建設専門業者スティヴンソン技術事務所に灯台建設技術主任とその助手2名の人選を依頼した。大政奉還(1867年11月9日)前の話である。ブラントンは、この公募に応募し、1868年2月24日に灯台建設技師長として採用された。

駐日英国公使ハリー・パークス。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:HSParkes.jpg

だが、当時26歳だったブラントンは、鉄道工事の経験はあっても、灯台建設に関わった経験も、海外で仕事をした経験もなかった。日本の灯台建設技師長に採用される少し前に応募したインド植民地での主任技師のポストでは、その若さと経験不足を理由に選考対象から外されている。その彼が日本での技師長に選ばれたという事実は興味深い。

日本へ発つ前に集中技術研修

採用決定後、ブラントンは灯台技術の知識と技能を習得するため、エディンバラのスティヴンソン事務所で3か月間にわたる集中研修を受けた。その際にスティヴンソン事務所が手掛けた英国内の灯台をいくつか視察している。

筆者が現在居を構えているハイランド地方のブラックアイル半島にも、このスティヴンソン事務所が建設した灯台が2基あり、そのうちの1基は、筆者が以前に紹介した「スコットランドのノストラダムス」(https://serai.jp/tour/1084879)が処刑されたとされている場所のすぐ隣にある。集中研修中のブラントンは果たして、このチャノンリーポイントの灯台も視察したのだろうか。そしてその際に、伝説の予言者の凄絶(せいぜつ)な最期を語る地元の語り部に耳を傾けただろうか、などと思いを馳せてしまう。

ブラックアイル半島チャノンリーポイントにあるこの灯台は、スティヴンソン事務所のアラン・スティヴンソンにより1846年に建てられたもの。
ブラックアイル半島にある2基目の灯台も、チャノンリー灯台同様スティヴンソン事務所のアラン・スティヴンソンが1846年に手掛けたもの。クロマティ港にあるこの灯台は、現在はアバディーン大学生物学部が所有しており、灯台としては機能していない。
こちらはスティヴンソン事務所の灯台標準設計仕様に基づいてブラントンが実施設計した和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡の樫野埼灯台。初点灯は1870年7月8日。ブラックアイル半島にある灯台とよく似ている。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kashinozaki_Lighthouse.jpg

帰国後の足取り

ブラントンの日本での活動について、ここでは深くは触れない。彼の功績の詳細に興味のある方は、先述の横浜開港資料館を訪問するといいだろう。

1876年に日本から帰国したブラントンは、同年11月14日に、自身の日本における仕事の技術的な詳細をつづった報告書『The Japan Lights(日本の灯台)』を英国土木工学会(Institution of Civil Engineers)に提出し、高い評価を受けたという。

ロンドンの国会議事堂の近くにある英国土木工学会の建物。ブラントンは日本へ出発する前の1868年4月にその準会員、そして1873年に正会員に選任されている。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Institution_of_Civil_Engineers_-_geograph.org.uk_-_2020105.jpg

その2年後の1878年には、スコットランドのグラスゴーを拠点とするランプオイル大手メーカーのヤングス・パラフィン・ライト・アンド・ミネラル・オイル会社の支配人に就任している。そして1881年にロンドンに居を移し、友人と共同で買収した建築装飾材の製造工場を経営するかたわら、建築家・土木技師として事業を展開し、劇場やホテルなどの設計に携わった。

ブラントン一家が1880年代に暮らした家。  ロンドン郊外ウエスト・ノーウッド(West Norwood)のジプシーロード(Gypsy Road)にある。写真提供:Friends of West Norwood Cemetery/Robert Flanagan

晩年の彼が手掛けたとされる建物のひとつが、アイルランドの首都ダブリンにある旧エンパイア・パラス劇場(The Empire Palace Theatre)である。1879年にミュージックホールとしてオープンしたものが、1897年に大掛かりな改装工事を経て劇場となった。ブラントンはその改装工事の際に設計を担当したのだという。現在は3オリンピア劇場(3Olympia Theatre)と呼ばれており、定期的にメジャーなコンサートやイベントの会場となっている。

ブラントンが改装工事を手掛けたとされている、アイルランドの首都ダブリンにある旧エンパイア・パラス劇場(現3オリンピア劇場)の現在の外観。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dublin-10-Dame_St_72-Olympia_Theatre-2017-gje.jpg
エンパイア・パラス劇場だった頃のスケッチ画。「壮麗な構造」と描写されている。画像提供:3Olympia Theatre

永遠の眠りの地

ブラントンが永遠の眠りについたのは、1901年4月24日のこと。ロンドンのサウスケンジントンにあった当時の自宅で脳卒中で倒れ、この世を去ったのだという。59歳であった。ブラントンの遺体は、彼とその一家が1880年代に暮らした家の近隣にある、ウエスト・ノーウッド墓地(West Norwood Cemetery)に埋葬された。この墓地は、The Magnificent Seven(華麗なる7大墓地)と称される、ヴィクトリア朝時代に建てられたロンドン周辺の美しい7つの墓地のひとつに数えられる。

ブラントンが葬られているロンドン郊外のウエスト・ノーウッド墓地の正門。最寄りの駅はウエスト・ノーウッド(West Norwood)駅で、ロンドン市内のヴィクトリア(Victoria)駅から30分程度。写真提供:Friends of West Norwood Cemetery/Robert Flanagan

ブラントンが埋葬された当時の墓石は、1970年代から80年代の間に何者かによって破壊されたそうだ。現在の墓石は、1991年のブラントン生誕150周年没後90周年記念の際に横浜商工会議所が新しく設置したもので、日本での彼の功績が英語で刻まれている。

ブラントンの墓。写真提供:Friends of West Norwood Cemetery/Robert Flanagan

英国王立地理学会(Royal Geographical Society)が運営する、英国内の興味深い散策ルート情報を満載したDiscovering Britainのウェブサイトには、英国の歴史上の著名人が多く眠るウエスト・ノーウッド墓地の散策ガイドのPDF版が掲載されており、そこにブラントンの墓も紹介されている。

https://www.discoveringbritain.org/content/discoveringbritain/walk%20booklets/West%20Norwood%20DB%20walk%20-%20written%20guide.pdf

ロンドン方面に行く機会があれば、ウエスト・ノーウッド墓地まで足を延ばし、彼の墓石とその周辺を掃除して花を供え、日本の近代化に大きく貢献した彼に敬意を払うのもいいだろう。

横浜開港資料館:http://www.kaikou.city.yokohama.jp/
アイルランドの3オリンピア劇場サイト(英語);https://www.3olympia.ie/
ウエスト・ノーウッド墓地友の会サイト(英語):https://www.fownc.org/

文/ケリー狩野智映(スコットランド在住ライター)
海外在住通算28年。2020年よりスコットランド・ハイランド地方在住。翻訳者、コピーライター、ライター、メディアコーディネーターとして活動中。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。

 

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