文/ケリー狩野智映(海外書き人クラブ/スコットランド・ハイランド地方在住ライター)
カナダのノースウエスト準州にあるグレートスレーブ湖に源を発して北西に流れ、北極海へと注ぐカナダ最長の河川、マッケンジー川。その名は、1789年にこの川を発見したスコットランド人探検家、アレクザンダー・マッケンジー(Alexander Mackenzie)に由来する。彼はメキシコ以北の北米大陸を横断した最初の欧州人でもある。
メキシコ以北の北米大陸を横断した最初の欧州人
1764年にスコットランドのアウター・ヘブリディーズ諸島ルイス島のストーノウェイで、小作農家の4人兄弟姉妹の次男として生まれたアレクザンダー・マッケンジーは、数年間続いた凶作の影響でアメリカに渡った父の後を追い、1774年に10歳でニューヨークへと旅立った。だが、アレクザンダーが足を踏み入れた1775年上旬のアメリカは、イギリス本国からの独立戦争の前夜にあり、独立戦争勃発から1年後の1776年、アレクザンダー少年はニューヨーク州北部から家族とともにカナダのモントリオールに移住した。彼はここで学業に励み、1779年に15歳で毛皮商に見習い事務員として入社している。
当時の毛皮商は、アメリカ先住民の諸部族との交易で成り立っており、その主導権をめぐって競合社の間で激しい抗争が繰り広げられていた。若くして重要な商務を次々と任されるようになったアレクザンダー・マッケンジーは、1789年7月3日にアサバスカ湖岸の毛皮交易所(後のフォートチペワイアン)から数名の白人と先住民を率い、太平洋と大西洋を結ぶ新交易路発見を目指してカヌーで探検に繰り出した。一行はスレーブ川を北上し、地域の先住民がデ・チョ(Dehcho)と呼んでいた川の河口が太平洋に流れ込むことを期待して苛酷な旅を続けたが、到達した先は太平洋ではなく、北極海であった。これに失望したアレクザンダーは、この川を「失望の川(The River of Disappointment)」と呼んだという。これが現在のマッケンジー川である。
その後、イギリスで新しい経度測定法を学んだアレクザンダーは、カナダに戻って再び新交易路発見の探検に繰り出した。1792年10月10日にフォートチペワイアンを出発してパイン川とピース川をたどり、11月1日にはピース川の分岐点に砦(後のフォートフォーク)を築いて越冬した。翌年1793年5月上旬にフォートフォークを出発した一行は、フレイザー川の上流を発見した後、1793年7月20日に太平洋に流れ込むベラクーラ川の河口に到達した。これにより、アレクザンダー・マッケンジーは、メキシコ以北の北米大陸を横断した最初の欧州人となったのである。
この地域の先住民であるヘイルツク族の抵抗に遭って旅の続行を断念したアレクザンダーは、自身の最西端点であったディーン海峡の沿岸にある岩に、「カナダのアレックス・マッケンジー、陸路にてここに至る 1793年7月22日」と刻んだ。この岩のある場所は現在、サー・アレクザンダー・マッケンジー州立公園(https://bcparks.ca/explore/parkpgs/sir_alex/)となっており、カナダの観光スポットのひとつである。
スコットランドに戻った探検家の最期
1801年に自身のカナダ探検記を出版した彼は、翌年その功績を称えられてイギリス国王ジョージ3世からナイトの爵位を授かり、以降サー・アレクザンダー・マッケンジーとして知られるようになる。その後1804年から1808年にイギリスに戻るまで、ロワー・カナダ(ケベック州にあったイギリス植民地)の立法議会議員を務めた。
そんな彼は実は、筆者が現在居を構えるスコットランド・ハイランド地方のブラックアイル半島にある小さな村、オック(Avoch)で1820年より永遠の眠りについている。彼はこの村にも大きく貢献した。
カナダでの毛皮交易と政治で富を築いたサー・アレクザンダー・マッケンジーは、イギリスに帰国してから4年後の1812年に、オック村の大地主の娘、ゲディス・マッケンジーと結婚した。記録によると、当時ゲディスはなんと14歳! 親子ほどの年齢差のある夫婦だったのだ。1809年に父親が死去したことにより、ゲディスと双子の妹はオック村のエステート(大地主の土地)の相続者となっていたが、ゲディスの夫となったサー・アレクザンダーは、このオック・エステートを2万ポンドで買取っている。当時の2万ポンドを現在の価値に換算すると、約150万ポンド。2億4千万円相当の巨額だ。このエステートの規模は、オック村全体の3分の2に相当したという。
二男一女をもうけたサー・アレクザンダーとゲディスは、上流階級の社交イベントが催される時期はロンドンの屋敷で過ごし、残りはオック村の屋敷「オックハウス」で過ごすという生活を送っていた。村人の生活をより良くするために尽力したサー・アレクザンダーは、良きレアド(laird:スコットランドの大地主)として敬愛されていた。彼のレガシーは、現在でも村の所々に見られる。
たとえば、1960年代までニシン漁が盛んであったオック村の船着き場は、サー・アレクザンダーの個人的な力添えで1813年に建設されたものだ。厳しい条件下で漁に出ていたこの村の漁師たちを不憫に思った彼は、道路・橋梁長官に船着き場建設の嘆願書を送り付け、船着き場の建設が決まると、その建設費の半分を負担した。現在のオックハーバーは、この船着き場を後年に拡大したものだが、今でも当時の壁の一部が残っている。
サー・アレクザンダーはまた、オック村の会衆派教会礼拝堂の建設にも貢献している。当時、礼拝堂を有さず、屋外や雨天時には橋の下で礼拝・集会を行っていた会衆派の信徒たちに、村の大通り沿いにあったコテージ(小家屋)を寄付した。1819年にはその土地に会衆派教会の礼拝堂が建てられたが、その費用も彼が大半を負担した。この件をめぐり、オック村の最初の会衆派教会司祭であったアレクザンダー・デュワーは、「サー・アレクザンダー・マッケンジーは非常にリベラルで協力的だ」と述べていたという。
波乱に満ちた人生を送ったサー・アレクザンダー・マッケンジーが他界したのは、1820年1月12日のこと。エジンバラで医者の診察を受けてオック村に戻る道中、腎臓炎のブライト病で倒れ、翌日息を引き取った。
一家が住んでいたオックハウスは、彼の死から13年後の1833年に火災で大部分が焼け落ちた。このとき、村人たちの懸命の救出努力にもかかわらず、サー・アレクザンダーの書類や所蔵品のほどんどが焼失してしまったという。廃墟化したオックハウスはその後「焼けた家(The Burnt House)」と呼ばれるようになり、1960年代になって胸壁風のファッサードの一部を残して取り壊された。現在ここには、このファッサードを利用して建てられた住宅がある。
サー・アレクザンダー・マッケンジーは、妻ゲディスと長男アレクザンダー=ジョージ、そして孫のケネス=トーマスとともに、オック村を見下ろす教区教会の墓地に眠っている。今でもこの村を見守っているかのように。
オック村ヘリテージ協会ウェブサイト(英語):http://avoch.org/people/alexander-mackenzie
文/ケリー狩野智映(スコットランド在住ライター)海外在住通算28年。2020年よりスコットランド・ハイランド地方在住。翻訳者、コピーライター、ライター、メディアコーディネーターとして活動中。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)