文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)

世界史の教科書には必ず登場する、歴史的包囲戦「ウィーン包囲」。特に1683年の「第二次ウィーン包囲」は、キリスト教世界に攻め入ろうとするトルコ軍をくい止めた、欧州の命運をかけた戦いとして知られている。

この第二次ウィーン包囲の舞台裏には、迷走する欧州君主たちをまとめ上げた、一人のイタリア人神父がいた。清貧の修道士だったマルコ・ダヴィアーノが、どのようにして「ウィーンの救世主」となったのか。欧州を股にかけた、その数奇な「縁の下の力持ち人生」を振り返る。

ウィーン、カプツィーナ教会に建つダヴィアーノ像

奇跡を起こして一躍有名人に

数あるキリスト教の修道会の中でも、カプツィン修道会は、清貧を教条とする宗派として知られている。茶色いフード付きローブの質素な修道服がトレードマークだ。1631年にイタリア北部アヴィアーノで生まれたマルコ・ダヴィアーノは、このカプツィン修道会に入り、聖職者の道を目指した。

24歳で神父となった後、イタリア全土を旅してミサを行っていたダヴィアーノだが、45歳の時に「奇跡」を起こし、大きな転機が訪れる。13年もの間病床に就いていた修道女に祈りをささげたところ、病気が治り、起き上がることができたのだ。以後ダヴィアーノは、病気を治す奇跡を起こす神父として訪れる先々で大歓迎を受け、その評判はオーストリアにいる神聖ローマ皇帝レオポルト一世の耳にも届いた。ダヴィアーノがウィーンを訪れ、皇帝と初めて会ったのは1680年、ダヴィアーノ49歳、皇帝40歳の時だ。

ハプスブルク家の居城ホーフブルク(王宮)

「女帝」マリア・テレジアの祖父に当たるレオポルト一世は、次男として生まれたため、元々皇帝ではなく、聖職者になるべく育てられた。兄の急死によって帝位が転がり込んできた時、レオポルトは教養が深く、多言語を操り、音楽を愛する人物に育っていた。バロックの華やかさの中、外政ではオスマン・トルコの襲来と、フランスとの敵対関係という火種を抱えていた時代だ。

内省的で信仰心の強いレオポルト一世の親友兼アドバイザーとなったダヴィアーノ神父は、公私にわたって皇帝を支え、政治、経済、軍事に限らず、精神的、個人的なサポートも惜しまなかった。情熱的で私欲のない神父の言葉は、落ち込みやすく、人を疑いやすい皇帝を支え、励ました。

第二次ウィーン包囲を巡る攻防

このレオポルト一世治世下の1683年、10万人以上のオスマン・トルコ軍に首都ウィーンは完全に包囲され、陸の孤島と化していた。欧州天下分け目の戦い「第二次ウィーン包囲」だ。

ウィーンの籠城は2か月間にも及び、危機に瀕したレオポルト一世は、欧州中を飛び回って援助を求めた。ダヴィアーノ神父も「教皇大使」の肩書を得て、オーストリアを中心とするキリスト教国の同盟強化に奔走する。その結果キリスト教国側は、教皇を旗印にオーストリア、ポーランド、リトアニア共和国、ドイツ諸侯などが同盟を結び、ウィーン北部に兵を集結し始めた。

しかし、キリスト教国側も一枚板ではなく、君主たちは私利私欲や名誉を優先し、内紛が起きかけていた。最大の軍勢を用意したポーランド王ヤン・ソビエスキ(ヤン三世)は、レオポルト一世が最高指揮者になるのであれば軍を引き上げると宣言し、皇帝と対立した。

この内紛を納めるべく外交手腕を発揮したのが、ダヴィアーノ神父だ。各君主と個人的に話をし、トルコ軍を前に内輪もめしている場合ではないこと、私利私欲を捨てて団結しなければ取り返しのつかないことになると説いた。

レオポルズベルク山頂の当時のウィーンを描いたレリーフ

こうして準備を整えたキリスト教同盟軍は、ウィーンの北にあるレオポルズベルク(当時の名はカーレンベルク)の山上に集結した。ウィーンとドナウ川を見下ろすこの山の上で、1683年9月8日、ダヴィアーノ神父は兵士たちを前に、出撃前のミサを執り行う。

全軍を鼓舞するその熱い口調が、トルコ軍には数ではるかに及ばないキリスト教軍を勇気づけた。事前の諜報活動で敵軍の弱点を見抜いていたキリスト教連合軍の、山を一気に駆け下る奇襲作戦が大成功を収め、ウィーンを取り囲んでいたトルコ軍は12時間の戦いの後に敗走する。

こうして、全軍の士気を高めたダヴィアーノ神父は「ウィーンの救世主」となったのだ。

現在のレオポルト教会

カプチーノの発明者?

ウィーン包囲でトルコ軍が残していったコーヒー豆でカフェが作られ、ウィーンのカフェ文化が花開いた、という逸話があるが、このカフェで「カプチーノ」を最初に作ったのが、ダヴィアーノ神父であるという伝説がある。

これは実は作り話で、実際のところ「カプチーノ」は、ダヴィアーノ神父本人ではなく、彼が属した「カプツィン修道会」の修道士の茶色いローブの色が由来だ。このローブ色になるようコーヒーとミルクを配合したものがカプチーノと呼ばれ、それが世界に広がって現在の形になったとされている。作り話であったとしても、ダヴィアーノ神父がウィーン包囲の功労者として人気があったことがわかるエピソードだ。

レオポルズベルクにあるダヴィアーノ神父像

参考:スパイがカフェの創始者に? 欧州をトルコ軍から救った英雄の数奇な人生(オーストリア)https://serai.jp/tour/1063336

皇帝との信頼関係

第二次ウィーン包囲の後も、バルカン半島を中心にトルコ軍との戦いは続き、ダヴィアーノ神父は南東へ向かって進軍するキリスト教徒側の軍隊に同行する。ミサで人々を鼓舞し、勝利に導くのに、彼ほど適任の者はいなかった。こうしてトルコ軍は徐々にヨーロッパでの覇権を失っていった。

ウィーンを離れている間も、神父と皇帝の間には親密な手紙が交わされていた。ダヴィアーノは時に、私利私欲や縁故主義に陥りがちな皇帝を叱り、国とキリスト教を第一に考えた行動をとるよう諭した手紙が残されている。オーストリア歴代二番目に長いレオポルト一世の治世を支えたのは、ダヴィアーノの存在が大きかったと言える。

カプツィーナ教会と納骨堂入り口

ダヴィアーノは1699年、ウィーンで息を引き取った。所属するカプツィン修道会が運営するカプツィーナ教会に墓所が作られ、レオポルト一世本人がラテン語で墓碑銘を記した。この教会の前にはウィーン包囲のレリーフと共に、彼が十字架を掲げる像が建てられている。

カプツィーナ教会内部のダヴィアーノ神父の墓所

奇しくも、このカプツィーナ教会の地下納骨堂は、ハプスブルク家代々の墓所となっていて、6年後に亡くなったレオポルト一世もここで眠っている。神父と皇帝とは、今でもすぐそばに埋葬されているのだ。

* * *

清貧の修道士が、皇帝の親友兼アドバイザーとなり、ウィーンを、ひいては欧州のキリスト教世界を救った。私利私欲を捨て、情熱と信仰心と外交手腕を武器に欧州君主たちと渡り合ったその人生。皇帝や王たちを支えた、縁の下の力持ちのダヴィアーノ神父こそが、「ウィーンの救世主」にふさわしいといえるだろう。

文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。監修やラジオ出演も。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。

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