文・写真/北かえ(海外書き人クラブ/メキシコ在住ライター)

メキシコの「チャモイ」という菓子をご存知だろうか。皮を剥き種を除いたあんずを、砂糖、塩、唐辛子、酢、レモン汁に漬け込んで作られるその味は、甘酸っぱさとほんのりとした辛さが特徴で、この国の誰もが知る定番の味だ。

スーパーの棚にずらりと並んだチャモイ商品

しかし実はこのチャモイ、作り出したのはひとりの日本人だった。

今回は、夢を抱いて海を渡り、メキシコの人々に愛される菓子を残した岩垂貞吉という男の物語を紹介したい。

成功を夢見てメキシコへ

貞吉は1904年に長野県の郷士、岩垂家の11代・傳(つたえ)の次男として生まれた。近代的な考えを持ち、エネルギッシュでオープンな性格で、周囲から注目を集めていたという。

すらりと背の高かった貞吉は近所の女性達からも人気があった

1907年母の義兄・矢嶋がメキシコに移住し、苦労の末に事業に成功した様子を伝え聞いていた貞吉は、1923年にちまこという女性と結婚し、自らも成功を夢見て同年にメキシコへと発つ。

当時貞吉夫婦はスペイン語を一切話せなかったが、港から矢嶋のいる街までなんとか辿り着き、彼の農場で働きはじめた。しかし仕事は厳しく、特にちまこは細い身体に重い水のバケツを担ぎ何kmも運ばなくてはならず、毎晩痛みに耐える姿を見かねた貞吉は、妻を連れ農場を去った。

リアカーで始めた商売

農場を出た二人はリアカーで野菜と果物を売り歩いていたが、しばらくして市場の隅に八百屋を出すようになり、商売をしながらスペイン語を覚えていったという。

ほどなくして、貞吉は中部の街・サンルイスポトシで商店を営む芦原という男を訪ねる。芦原の父が興した店は当時大変繁盛しており、貞吉は働きながら商売を学んだ。街は鉱山で潤い、他にも日本人が働いていたため、彼らとの繋がりも生まれた。

働き始めて一年が過ぎた頃、貞吉は芦原に勧められ、サンルイスポトシ市から約100km離れたセリートスという小さな村で自分の商店を開いた。夫婦で熱心に働き、売り上げは順調に増えていった。

貞吉が最初に開いた店の外観

村の日本人は貞吉夫婦だけだった。住人の中には二人の成功を妬む者もいて、店はあるとき放火をうけ、一晩で燃えてしまった。しかし同情した住人たちが手助けをしたので、店は一週間後に「カサ・イワダレ(岩垂商店)」という名で営業を再開した。貞吉は彼らへの感謝を繰り返し口にしていたという。

戦争に翻弄されながら

1934年、貞吉は店を続けながら400haほどの農地を手に入れた。痩せた土地だったが、トマトや小麦、トウモロコシなどの栽培に成功した。さらに鉱山も購入し、450人の鉱夫を雇うまでになった。

貞吉は熱心な働きぶりと優れた経営手腕から村で一目置かれる存在となり、争いが起きると住人たちが相談に来た。一方彼自身も、冠婚葬祭には従業員総出で駆け付け、道の舗装や寄付など奉仕活動も積極的に行い、メキシコ人社会に入り込む努力をした。

有名な繁盛店となった貞吉の店の前は、いつも客で大賑わいだった

そんななか、1942年にメキシコ政府は第二次世界大戦への参戦を宣言する。「終戦まで伊・独・日の三国出身者に市民権を認めない」とした臨時の法令により、日本人は土地や財産を手放し、メキシコシティかグアダラハラに移住しなければならなくなった。貞吉も例外ではなく、村を離れメキシコシティへと移住した。

しかし戦況が日に日に激化するなかでも、人々は優しかったという。彼らは日本人に「戦争は私たちの友情と無関係だ」と言い、原爆が投下された際には教会の鐘を鳴らし広島のために祈ってくれた。

子どもたちの健康のために

1945年に終戦を迎えると、貞吉は鉱山事業の収益を基盤にメキシコシティで次々と新たな事業を始める。1948年には生鮮食品から石鹸まで幅広く取り扱う商店を開き、繁盛させた。日本人を雇い熱心に仕事を教えたので、店は「岩垂学校」と呼ばれた。

そんな貞吉の娯楽は、郊外の農場での「研究」だったという。東西南北それぞれ気候の異なる場所に農場を所有し、様々な作物の栽培を試みた。

彼の一番の関心は、子どもたちの健康だった。トウモロコシ粉で出来たトルティーヤを主食とするメキシコの子どもにはもっとタンパク質が必要だ、と大豆粉を作る会社「Proteina Soya S.A.」を設立した。この大豆粉は、貞吉の提案でトウモロコシ粉に混ぜられ、国内に広く流通するようになった。

栄養価の高い大豆粉は多くの人々から注目を集めた

そして生まれたチャモイ

大豆粉をより多くの子どもに食べてもらうためいい方法はないかと考えていた貞吉は、あるとき新しい商品を思いつく。

それは、日本の梅干のレシピをベースに、梅の代わりにメキシコで豊富に採れるあんずを漬け込んで作った菓子だった。甘酸っぱいあんずを孫たちが競い合うように食べる姿を見た貞吉は、チャモイと名づけ売り出すと同時に、粉末状にして大豆粉を混ぜたものを小さな袋に入れ販売した。

貞吉の工場とチャモイはその後信頼できる友人であったメキシコ人へと譲渡され、当時と変わらぬレシピで今も販売されている

街の子どもたちが大豆粉の入った粉末チャモイを喜んで食べるのを見て、貞吉はとても満足そうだったという。人気は絶大で、ほどなくして類似品を売る者が出始めると、ソースや粉末だけでなくアイスや飴など「チャモイ味」の商品が次々と登場した。

チャモイ発売当初のパッケージには日本を意識した扇子のイラストも描かれている

貞吉がメキシコに残したもの

1980年頃に病に倒れるまで、貞吉の進取の気性は衰えず、メキシコ初のインスタントラーメンを作り、ハローキティを初めて持ち込んだ。時代を先取りすぎて評価を得られないこともあったが、落ち込みはしなかった。

自らを受け入れ、戦争の時代も変わらぬ温かさで接してくれたメキシコの人々に、貞吉は生涯感謝し続けていたという。チャモイは、そんな彼がこの国の未来のためにした恩返しだったのかもしれない。

メキシコを訪れる機会があれば、ぜひ旅の思い出にチャモイを食べてみてほしい。甘酸っぱさとほんのりとした辛さは、爽やかでエネルギッシュなこの国の太陽によく似合う。

サッパリと爽快なチャモイ味はアイスキャンディーでも人気のフレーバーだ

Alpro Alimentos Proteínicos S.A. de C.V.
(「Proteina Soya S.A.」を引継ぎ現在も同じレシピでチャモイを作っているメーカー)
公式サイト:http://alproalimentos.com.mx/
住所:16 de Septiembre 33, San Francisco Culhuacan de San Juan, Coyoacán, 04260 CDMX

取材協力:Olivia Iwadare、Ken Luis Tobe Iwadare
参考資料:” Biografía de Iwadare Teikichi“ (Copyright2012 Ken Luis Tobe Iwadare)

文・写真/北かえ(メキシコ在住ライター)
標高2250mのメキシコシティ在住ライター。日本のメディアでインタビュー記事やメキシコを題材にしたコラムを執筆。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。

 

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