日本各地には多くの湧水がありますが、その中で、何故か名水と呼ばれる水があります。ただ、美味しいというだけではなく、その水が、多くの恵みをもたらし、人々の命に深く関わり、生活を支えてきたからに他ならないからでしょう。それぞれの名水からは、神秘の香りと響きが感じられます。名水の由来を知ることは、即ち歴史を紐解くことであり、地域の文化を理解することでもあります。
名水に触れ、名水を口にすれば、もしかすると、古の人々の想いに辿り着くことができるかもしれません。
歴史ある水を訪ね古都を歩きます。
古代の人々は、太陽や月、そして海や山、川や水、巨木や巨岩にいたるまで神が宿ると信じてきました。“森羅万象“に宿る八百万の神々の思想は、自然にたいしての畏敬と、恵みへの感謝から生み出されたものと考えられます。特に日本は山国であるだけに、古来より、山岳は神霊の住む霊地として崇(あが)められ、山は田の神の帰る所、農民たちには水田稲作を守る水分神(みくまりのかみ)や祖霊と信じられていました。霊峰と崇められる山には大規模な寺院が建立され、その周囲には修行僧たちの道場や宿坊が開かれ、やがては門前町が形成されるまでに発展した地も数多くあります。
今回の「古都の名水散策」では、そうした山岳信仰によって発展した町に湧き出す、山岳信仰とも深い繋がりを持つ名水を訪ねてみました。
中世の一大仏教都市は、泉の中から現れし白山の大神のお告げが起源であった
日本各地に山岳信仰の盛んな地域があります。代表的な信仰の山と申しますと、やはり富士山、そして木曽の御嶽山、出羽三山(山形県のほぼ中央に位置する月山、羽黒山、湯殿山)、大峰山などの名が思い浮かびます。
それらの山々に劣らぬ信仰の山として忘れてならないのが「日本三名山」の一つでもある「白山」です。白山は、古くから「越のしらやま」と詩歌にも詠われる秀峰。その山容は、加賀・越前・美濃・飛騨四か国にまたがってそびえ立ち、山体から流れ出す豊富な水は、四方の川を満たし、下流域の広大な田畑を潤してきました。そうした恵みをもたらす白山は、人々の生活と農事を見守る水神や農業神のように崇められていたでしょう。
白山そのものを御神体とする白山信仰が、世の中に広まったことは容易に理解できることです。
平泉寺白山神社は、全国にある白山神社の起源となった御社です。養老元年(717)に「越の大徳」と称された泰澄大師(たいちょうだいし)が、白山へ初めて登拝した折に池の傍で祈っていたところ、白山の大神が現れ神託を得たと伝わっています。それ以後、その池は「平清水(ひらしみず)」「平泉(ひらいずみ)」と呼ばれるようになり、池の周辺に修験者のための宿坊ができはじめ、やがて礼拝をする拝殿や寺院などが建立され、徐々にその規模は拡大。最盛期には48社36堂6千もの宿坊が立ち並ぶほどの一大宗教都市を形成するまでに隆盛を極めたそうです。
お寺の起こりが「平泉(ひらいずみ)」であったことから、中世の頃は平泉寺(ひらいずみでら)と呼ばれたそうですが、いつの頃からか平泉寺(へいせんじ)という音読みに変化したそうです。
1084年に比叡山延暦寺の末寺となって以降、鎌倉時代、室町時代の頃には、平泉寺の僧兵集団は、時代の覇権争いにも大きな影響を及ぼすまでに強大な勢力になります。しかし、天正2年(1574)に一向一揆勢の乱入により一山ことごとく焼失。その11年後、顕海僧正が平泉寺を再興され、江戸時代の頃には平泉寺から白山にいたる広い地域を平泉寺の白山社領として支配したそうです。
明治3年(1870)の神仏分離令により、平泉寺の寺号は廃され、白山神社になっています。また、翌年の明治4年(1871)の廃藩置県によって白山は石川県となり、平泉寺の支配から切り離されました。
泰澄大師が、白山登拝の途中に神託を得たと伝わる、平泉寺の起源「平泉」は、御手洗池として白山神社の境内に大切に残されています。御手洗池(みたらしいけ)の傍にある駒札には次のように記されておりました。
泰澄大師は養老元年(717)白山登拝の途中この林泉を発見され、大師の祈念に応じて泉の中の影向石(ようごういわ)に白山の大神が出現され、「神明遊止の地なり」とのお告げがあったため、当地に社を建てて白山の神を奉斎されたと伝える。当社発祥の地であり、「平泉寺」や「平清水」(平安時代の呼称の一つ)の名の由来はここにある。神泉は今もって絶えることなく湧き出ている。
池の東(御本社寄り)に聳(そびえる)三又杉はこの時大師が植えられたものと伝え、一千二百数十年を経て健在であり、幹は途中から三本に分れ白山三社をかたどる形となっている。当社のご神木であり注連縄が張られている。
城下町の雰囲気を止める勝山の町に、湧水を求め散策
白山信仰の中心地「越前番場」として栄えた平泉寺とその周囲。
一向一揆によって荒廃した時期もあったようですが、戦国時代天正8年(1580)には柴田勝家の一族・柴田勝安によって勝山城が築城されて以降、明治時代に廃城となるまで、嶺北地方の中心的な城下町として発展したようです。かつて勝山城が在った場所には市庁舎が建っておりますが、本町通り界隈には城下町であった名残があちこちに見られます。
その本町通り商店街から細い路地を入った一角に「大清水(おおしょうず)」と呼ばれる湧水がありました。かつては、生活用水や川魚のいけす、飲物や果物を冷やす場所として利用されていたようですが、現在は湧水を確認することはできませんでした。
昭和中頃までは、勝山市街地には数多くの清水が湧いていたようですが、都市開発が進むにつれ枯渇したとのこと、大変残念なことです。大清水の前には不動明王が祀られており、周囲は大清水公園として整備されていて毎年7月末には「大清水祭り」が開催されるとのこと、かつて城下の生活を支えた水への感謝は引き継がれているようでした。
白山信仰に通じる住民に愛される名水「神谷の水」を求める
市の郊外には福井県が指定する名水が幾つかあるとわかり、その一つを訪ねてみることにしました。勝山市街地から国道157号を石川県白山方向へ約10分ほど北進。暮見トンネルを抜けて直後、左手に大きな水車が見えてきます。お目当ての名水は、この水車が目印。
水車の傍に、勢いよく吹き出す取水口が設けられています。どうやら水車の動力となっているのも同じ水系のようです。栃神谷集落の入り口にあるこの水車、平成22年(2010)に地区の住民の方々によって作られたとのことです。
近くの住民の方にお聞きすると、近くの山の中腹にある岩の間から湧き出している水を、700メートルほど引き込んでいるとのことでした。この水は、古くから地域の人々の簡易水道として使用されてきた水源であったそうです。
現在は、市の上水道が完備されているにも関わらず「昔から慣れ親しんだ水の方が美味しい」ということで、地域の人や近隣の多くの住民が「神谷の水」を生活水として利用しているとのことでした。撮影をしている間も、自動車を止めて取水する人の姿が見られました。
「神谷の水」のある栃神谷地区は、福井県下でも有数の豪雪地帯。取材した時も、水車の周りには2メートル近い積雪がみられました。豪雪地帯に住む人々に大切にされている「神谷の水」は、泰澄大師が「神明遊止の地なり」とのお告げを授かった「平清水(ひらしみず)」に通じているような感じがいたしました。そして、信仰の山「白山」に蓄えられた水が、ここへ湧き出しているかのように思えてなりませんでした。今や勝山は、恐竜の町として全国的にも有名ですが、歴史的にも見所の多いところ、一度お訪ねになってみてはいかがでしょうか。
所在地・アクセス
●平泉寺白山神社
住 所:福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63
鉄 道:福井えちぜん鉄道 勝山駅よりタクシーで約10分ほど
自動車:中部縦貫自動車道 勝山ICより約15分ほど
取材・動画・撮影/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
ナレーション/小菅きらら
京都メディアライン:https://kyotomedialine.com Facebook