文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)

ザルツブルクに生まれ、ウィーンに10年間暮らしたモーツァルト。ウィーンにはそんな彼の住居が10か所以上ある。モーツァルトゆかりの地には、史跡を示すパネルが埋め込まれ、道行く人たちにも、彼の人生の足跡が手に取るようにわかるようになっている。

ウィーンでモーツァルトが4年を過ごし、「フィガロの結婚」の作曲など全盛期を過ごした家の史跡パネル

ウィーンに限らず、オーストリア各地に記念碑や史跡パネル、彫像が残されているモーツァルトだが、ウィーンからプラハに向かう途上の小さな村に、書籍に一切記載されていない一風変わった記念碑がある。「モーツァルトの立ちション石」と呼ばれる謎の史跡だ。

「モーツァルトの立ちション石」

「モーツァルトの立ちション石」があるのは、ウィーンから約40kmプラハ方面にあるラシャラ(Raschala)村。石碑には、「モーツァルトがプラハに行く途中、ここで馬車を停めた。それ以来人々の間で、この石は立ちション石と呼ばれている」とある。モーツァルトは確かに、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」初演のために1787年にプラハへ旅行している。しかしこの石と銘板は、1976年に住民によって設置されたもので、どことなく胡散臭い。

この石の伝説と信憑性を検証すべく、現地を訪れてみた。

伝説の起源

「モーツァルトの立ちション石」について調べてまずたどり着くのは、「住民がカーニバルのジョークと村おこしのために作った」という情報だ。一方、この石には立派な公式サイトまであり、その記述によると、四年に一度「立ちション石祭り」が催され、毎年「石の周りを一周する」イベントが企画されていてる。悪ふざけにしては活動が活発だ。

更に文献を当たると、オーストリアの昔話を集めた書物に、この村の「立ちション石伝説」が収録されていた。近年の作り話ではなく、少なくとも昔からこの地方で信じられてきた「言い伝え」ではあるらしい。この伝説を要約すると、以下のようになる。

「モーツァルトがプラハに向かう途中、小高い丘の切通しにさしかかった。ちょうど周囲の視界を遮る地形のため、馬車を止めさせ、御者に『ラッシャラー』(”Rasch ala.”「早く一人(allein)にしてくれ」の意)と告げて、道端の石に用を足した。そのため、村はラシャラと命名された。これが、ワイン蔵通りで村人たちがワイン片手に語る、村の名前の由来だ。」

この伝説の信憑性を、「村の名前の由来」という観点から考えると、この地名は13世紀には記録に登場しているため、18世紀のモーツァルトの一言が起源とはなりえない。しかし、それ以外の三点で、この伝説は「この土地でなければ生まれなかった」複数の要素を含んでいるのだ。

まずは、ラシャラ村がウィーンからプラハへの郵便馬車のルート上にあることから、モーツァルトがここを通った可能性はかなり高い。更に、この村はオーストリア一のワイン名産地にあり、ワインセラーが並ぶ美しい通りがあることで知られている。長旅の疲れをいやすため、下車してワインを楽しむのにぴったりだ。また、モーツァルトが身を隠して用を足したとされる丘の切通しは、この地方の土壌が生み出す独特の地形で、ほかの地域ではほとんど見られない。

果たしてモーツァルトの立ちションは、史実なのだろうか?

ラシャラ村を訪ねて

ウィーンからの車窓は、チェコ方面特有のなだらかな丘陵地帯が続き、ワイン畑が広がる。モーツァルトの時代は、郵便馬車でプラハまで4日ほどかけて進んだのだろう。

ウィーンから車で30分、馬車だと半日強の距離のところに、その村はあった。どこにでもあるようなひっそりとした目立たない村だ。「立ちション石」の目印も全くない。本当に存在するのだろうか?

ラシャラ村の何気ない風景

村の一角のハイキングコースを少し行くと、小さく古風な雰囲気の広場につながっている。その魅力に惹かれて迷い込んでみると、その隅にあの「立ちション石」が立っていた。これが、あの謎の記念碑だ。

広場の片隅に立つ立ちション石

実物を目にしても、外見だけでは真偽のほどは分からない。しかし、周囲を見回すと、急にタイムトリップしている錯覚を覚えた。この広場があまりに魅力的すぎるのだ。モーツァルトの時代にも、この広場はこんな風情だったに違いない、そんな風に思わせる場所だ。

立ちション石が一角に立つ広場

ワインの村ラシャラ

モーツァルトの逸話は、この地方のワイン作りの伝統と切っても切り離せない関係にある。

ラシャラ村が属する地域は「ワイン地方」と呼ばれ、オーストリア一のワインの名産地だ。ワイン造りに適した、レス(Löss)と呼ばれる黄土の土壌は、この土地特有の「ケラーガッセ」と呼ばれるワイン蔵通りを生み出した。

レスの土壌

レスという土は、縦方向の圧力には強いが、横からの力に弱い。レスでできた丘に人や馬車の通った跡ができ、そこを大雨の時に水が流れると、土が流されて下方に侵食され、両側が土の壁となった道が作られる。この切通しはホールヴェク(Hohlweg)と呼ばれ、この地方の地形の独特の魅力となっている。

両側が土の壁となったホールヴェク

そしてこのホールヴェクの土の壁に横穴を掘り、ここをワインセラーとしたのが、この地方のワイン作りの特徴だ。この地域の村のホールヴェク沿いにはワインセラーが並び、「ワイン蔵小路」を意味する「ケラーガッセ」(Kellergasse)と呼ばれている。レスの土壌が、ワイン作りに最適な湿度と温度を作り出すのだ。

ラシャラ村のワイン作りは13世紀には既に行われていて、17世紀末には既にケラーガッセが記録に残り、モーツァルトの時代には地図上にも記されている。現在では、「ワイン地方で最も美しいケラーガッセの一つ」と称されるほどだ。

ラシャラ村のケラーガッセ

さらに、通りの名前をじっくり見てみると、ラシャラ村のケラーガッセには「旧郵便通り」という名前が付いている。ウィーンからプラハへの郵便馬車が通る、まさにそのルート上にあるのだ。

ケラーガッセを歩く

それでは実際に、ラシャラ村のケラーガッセを歩いてみよう。端から端までゆっくり散歩すれば、5分ほどで通り過ぎてしまえる長さの通りだ。馬車一台通れるくらいの道幅のところもあれば、少し広くなっているところもある。道端にはベンチが置かれ、気軽にワインを飲むことができるようになっている。白壁の小屋の扉は低く、地下の深さを想像させる。

ケラーガッセの一角に置かれたピクニックテーブル

何十軒ものワイン蔵が並ぶ中、二軒だけ扉が開いていて、ワインやぶどうジュースの無人直売所になっていた。ケラー内は地下二階構造で、販売所は半地下にあり、奥の階段からさらに深いワイン蔵へと続いている。こうして、レスの土壌の恩恵を存分に受けたワインが醸造されるのだ。

ケラーへの入り口
ケラー内の無人販売所。奥の地下扉からワイン蔵につながっている

ワインと搾りたてのぶどうジュースを購入し、さっそく飲んでみよう。「立ちション石」の広場のベンチに座りワインを並べると、モーツァルトの時代にタイムスリップしたような気分に陥る。

左がぶどうジュースで右が白ワイン

ワインはムスカテラ系の甘みがあり、さわやかでいて飲みごたえがある。グラスには「立ちション石35周年」と刻印があり、この村の思い入れに、思わず唇がほころぶ。

ワインを飲みながら、18世紀に思いを馳せてみよう。オペラ「ドン・ジョヴァンニ」は、1787年10月29日プラハ、エステート劇場にて初演された。モーツァルトはそのために、1787年10月1日に妻のコンスタンツェと共にウィーンを出発し、4日にプラハに到着した。二人の乗った郵便馬車がラシャラ村を通りかかるのは、出発の半日後、10月1日の午後だろう。ちょうどワインの醸造が始まり、新酒や「シュトルム」と呼ばれる発酵途中のワインが、旬を迎える時期だ。

郵便馬車が休憩のためにこの広場で停車するのが目に浮かぶ。馬車を降りたモーツァルトは、半地下のワインセラーから直接、できたてのワインを買ったに違いない。半日揺られてきた体を道端のベンチで休め、妻と共にワインを楽しみつつ、地元の人とも気軽に会話を楽しんだだろう。再び馬車に戻る前に、身を隠して用を足し、再びプラハへの旅路に着いた。郵便馬車はケラーガッセを上り、村人たちに見送られながら、丘の向こうに消えていく。

実際にその場でワインを飲んでみると、まさに250年前の風景が目に浮かぶようだ。モーツァルトと同じ季節に、同じ景色を見ながら、同じ産地のワインを味わっている。

* * *

ラシャラ村の「モーツァルトの立ちション石」には、学問的な裏付けはないかもしれないが、ただの作り話として片づけられない、地勢的、地理的、歴史的条件を満たしている。証拠はなくとも、現地を訪れることで、更に興味深い事実に出会え、言い伝えが残る理由が十分にあることが分かった。この村を訪れる人は、250年前のモーツァルトと同じように、ケラーガッセとワインの虜になってしまうだろう。

文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。海外書き人クラブ会員https://www.kaigaikakibito.com/)。

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