細川藤孝に見送られ、莫大な餞別は家康から銀子10枚、織田信雄から黄金1枚
しかも、自邸から東寺口までは島津忠恒(島津義弘子息)に、そこから淀までは細川藤孝に見送られており、徳川家康から銀子10枚、織田信雄から黄金1枚など、莫大な餞別をもらっていた。既に信尹の坊津における生活の一端は述べたが、立派な殿舎が用意されたわけではなかったものの、坊津の一条院の僧侶たちや島津氏とその家臣団の細やかな世話を受けて優雅そのものだった。
文禄4年7月、関白秀次は謀反の疑いを受けて自刃した。いわゆる「秀次事件」である。この結果、信尹は帰洛がかなうことになる。近年の研究では、この事件を単なる一門粛正事件にとどまらず、仕掛けた側の石田三成ら秀吉側近グループによる豊臣一門大名の除去をめざしたクーデター、すなわち「文禄四年政変」ととらえる視点が提出されている。
この政変はそれまでに形成された秀吉側近とそれに親密な大名衆のグループと、秀吉の一門大名グルーブによる派閥抗争が、朝鮮出兵の行き詰まりを機に主導権の掌握をめざして表面化した事件と理解することができる。
三成をはじめとする秀吉側近が大躍進を遂げたのが、政変の結果だった。厭戦気分さえ漂い始めていた朝鮮出兵は、関白秀次を葬るという「綱紀粛正」によって慶長の役として継続されていく。信尹の帰京が秀吉から許されたのは、慶長元年(1595)4月のことだった。武家関白秀次が失脚し、太閤秀吉による一元的な支配体制の構築がめざされた時、信尹は帰洛するのであるが、これは公家の地位が一段と後退したことを示すものでもあった。
かつて坊津配流の折りの心細やかな配慮に対する返礼であろうか。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直後、信尹は西軍となって敗退した島津氏の落ち武者を匿っている。この時の、島津義弘の敵中突破の逃避行は史上有名であるが、取り残された将兵を京都の自邸で翌年まで秘匿し、無事薩摩まで送り届けた。さらには、島津氏の赦免についても家康に進言するなど様々に尽力した。
慶長6年8月、ついに島津氏の赦免がなった。交渉のために上洛した島津氏の使者鎌田政近は、家康から島津領安堵の確約を得た後に近衛前久・信尹父子に対面している。近衛家と島津氏との良好な関係は、江戸時代も維持されることになる。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』など著書多数。