文/砂原浩太朗(小説家)

渋沢栄一記念館(深谷市)

「渋沢栄一」とは何をした人なのか(前編) はこちら

新政府でも活躍

渋沢栄一たちがヨーロッパへ滞在しているうちに、幕府は政治の大権を朝廷へ返上してしまう。いわゆる大政奉還だが、いそぎ帰国した一行が故国に辿りついたのは、1868(明治元)年の11月。すでに戊辰戦争もほぼ終わり、徳川家は駿河(静岡県)70万石の一大名となっていた。ふたたび主家への出仕をはじめた栄一だが、こんどは中央政府から大蔵省へ仕官せよとの命がくだる。やはり財務官僚としての抜擢だった。彼の有能さは敵方ともいえる新政府にまで鳴り響いていたのだろう。徳川家の恩を思い固辞しようとした栄一だが、省の実力者・大隈重信(1838~1922)から「ともに新しい日本を創ろう」と諭され、政府入りする。大隈は肥前佐賀藩の出身で、早稲田大学の創立者として知られる人物。説得上手だったというから、まさに面目躍如といったところである。

栄一は新政府で鉄道や郵便の立ち上げなど、200件もの事業に関わった。ちなみに、1円切手の肖像でなじみぶかい郵便の父・前島密(1835~1919)はもともと静岡藩士で、この時期、栄一に登用されたひとりである。

が、官尊民卑の打破を志す彼にとって、政府の一員であることはやはり意に染まぬものだったらしい。1873(明治6)年、野にくだった栄一は、第一国立銀行(現・みずほ銀行)を立ち上げる。実は、バンクの訳語として「銀行」ということばを定着させたのも彼である。フランスでエラールから教えをうけて、わずか6年。変革期とはいえ、その行動力には瞠目のほかない。

大経済人として

栄一の事業において銀行の経営が大きな柱だったことは間違いないが、活躍はそこにとどまらない。製紙、紡績、保険、汽船、鉄道から、ビールやホテルまで、さまざまな分野でなんと500にもおよぶ企業の創立・経営にかかわった。現在まで存続しているものも多く、たとえばJRや王子製紙、サッポロビールや帝国ホテルがそれだといえば、栄一が日本経済に残した足跡の大きさが窺えるだろう。

特筆すべきは、彼が利をむさぼらず、あくまで事業に公益性をもとめたこと。産業の振興じたいが目的だったため、同業他社に助力することもしばしばだった。この姿勢は批判を浴びることもあったが、意に介さなかったという。また、みずから「論語」を規範とし、経済と道徳は両立すべきであると主張した。

これが口先だけのものでなかった証しとして、関わった企業の株を独占しようとしなかったことが挙げられる。彼は晩年、財産を管理するための同族会社を設立したが、たとえば第一銀行の株でこの会社が保有したのは3パーセントに満たなかった。

社会活動に対する熱意もよく知られている。この方面では600もの事業にたずさわったが、とくに孤児や浮浪者などを保護する養育院には30代からかかわり、亡くなるまで院長を務めた。また国際親善にも力をつくしており、アメリカとの関係にはとりわけ心をくだいている。渡米は4回におよび、最後の折は80歳を超えていたという。ノーベル平和賞の候補にも2度挙がっている。

【意外な弱点。次ページに続きます】

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