「本の書き手」が動画に出る場合、どのようなメリットやデメリットがあるのでしょうか。

橋爪大三郎先生(社会学者。東京工業大学名誉教授。大学院大学至善館教授)は、「送り手側」の視点から、ネット動画メディアの可能性と難しさをお話しくださいます。

利点としてあるのは、「書き手」の「人となり」がわかること。そこから、様々な情報も入ってくるといいます。反面で「送り手」としての難しさは、まさに「人となり」がわかってしまうこと。さて、どのようなことなのでしょうか。

「送り手」側からの視点を意識することは、通常、あまりありませんが、「送り手」が直面する問題を知っておくと、動画の見方も、少し変わってくるかもしれません。

まさに、動画で教養を学ぶ時代の、興味深い視点といえるのではないでしょうか。1話10分で学ぶ教養動画メディア「テンミニッツTV」(イマジニア)での講座から、内容を抜粋してお届けします。

※動画は、オンラインの教養講座「テンミニッツTV」(https://10mtv.jp/lp/serai/)からの提供です。

橋爪大三郎(はしづめ・だいさぶろう)
1948年生まれ。社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。東京工業大学教授を経て、現在、東京工業大学名誉教授。大学院大学至善館教授。

橋爪大三郎先生

※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)

動画とテキスト、両方のメディアを活用する

――先ほど先生のお話にあったように、本が信頼できる理由は、まさに編集や出版社、著者への信頼にあるということでした。また、歴史の伝統の積み重ねの上に、そうした文化ができたということについてもお話しいただきました。一方で、ネットでそれをどう実現するかということも、もちろん考える必要があります。

そして、先ほどテキストの部分と映像の部分についてのお話がありました。私がよく思うのは、例えばこのような形で実際にインタビューをさせていただいたときの印象と、それを文字に起こしたものを見たときの印象が、まるで違うということです。テキストにすると平板だけど、お話を聞いていると、非常に立体的に感じるというケースもあります。

ただもう一方で、知識を効率的に身につけるためには、テキストのほうが便利であったりします。自分で考えるためにも、テキストを読んで、考えるほうが便利なことがあります。この使い分けといいますか、両方あることの良さは、まさに先生が先ほどおっしゃったことにあると思います。このような、動画メディアの使い方とテキストメディアの使い方に関して、先生はどのようにお考えですか。

橋爪 両方あるのが、一応理想的です。両方あったほうが、立体的に物事の本質を捉えることができます。だけど、ネットメディアがなく、今のようないろいろなメディアがない時代は、そういうことは望むべくもありませんでした。

どんな本でもテキスト以上の情報を想像して味わうことができる

橋爪 例えば、150年前にヘーゲルという哲学者がいました。ヘーゲルは大学で講義を持っていたから、大学で学生を前に講義をします。学生はヘーゲルの顔を見て、ヘーゲルの人柄などいろいろなものをありありと描きながら講義に出席して、ノートを取ったりしていました。それが出版されたりすると、大学でヘーゲルの学生ではない大勢の人たちもヘーゲルの本を読みます。

そうすると、ヘーゲルという人に会ったことがあって、その人となりをなんとなく知っている人がヘーゲルを読んだときと、一方で、ヘーゲルがどんな人だかわからない、肖像画を見たことがあればいいほうというくらいの大勢のドイツ人がヘーゲルの書いたものを読んだときとで、両者に差があった場合には、何か伝わりきれていない部分があるということになります。

読むほうからすると、ヘーゲルには会ったことがないけれども、ヘーゲルに会った人と同じようなクオリティでヘーゲルの書いたものを読みたいと思います。

そこで、多くの著者について、「伝記」が書かれます。彼はどこで生まれて、こんなふうでしたとか、彼と会った人のエピソードを別な人が書くとか、そういうものに対する需要があり、活字の中から著者の生き様や人間性というものを味わい尽くしたいと思うのです。

――例えば、失意のどん底で書いた本だからこうだろうとか、そういう照らし合わせをしながら読むということですよね。

橋爪 はい。そういう補助材料がなかったとしても、こういうことを書くからにはこういう人間性を持っていたはずだと想像します。それは読者の努力なのです。

例えば『論語』を読んだとします。一通りのことが、いろいろ書いてあります。でも、弟子との問答があり、それが普通のものとは違っていたら、孔子という人の人間性が、そこから滲み出てくるような気がするではないですか。

――そうですね。

橋爪 子どもが読んでも、そんなものはあまり滲み出てこないでしょう。孔子は苦労人なので、苦労している人からすると、いろいろ共感し得るところもあるのです。

というわけで、補助的なメディアはあまりなくとも、『論語』を読んだって、そこから孔子の人となりがその人なりに理解することができます。どんな本だって、そのように読むことができます。

動画メディアは表現のコントロールが難しい

橋爪 今は(ネット)メディアがあるため、よく探せばその人のユーチューブ動画などを見つけることもできます。しかし、時にそれがかえって邪魔になることがあります。

本で読んでいるときには、本には美しく書いてあり、人間性をありありと想像して、「こういう人なのだろうな」と自分なりにイメージを持っていたとします。その人が、あるとき動画を見たら、なんといいますか、もっと俗な人だったということがある。人間的にもちょっと尊敬できなくて、かえって「幻滅しました」なんてこともあります。

――これはなかなか書き手としては、難しい時代でもありますね。

橋爪 そうなのです。テレビは素の自分が出てしまいます。動画もそうかもしれませんが、自分を完全にコントロールするのは難しいのです。表情や態度など、そういった自分の体とは、自分で完全に意識してコントロールすることができません。そこにいろいろなものを読み取られてしまうし、いろいろなものが相手に伝わってしまいます。

でも活字は意識して一字一字書いていますから、隅々までコントロールしようと思えば、できないことはないのです。

少なくとも、自分の表情や声の調子、雰囲気に比べれば、ずっとコントロールしやすいです。そしてそこに感情を人造的に盛り込むこともできます。和歌や文学であれば、自分の感情と無関係に登場人物の感情を二次的に構成することだってできるじゃないですか。

小説やフィクションではなかったとしても、書き手は、「国を憂うる憂国の情熱」などといったものを文章として構成することもできます。テレビや動画では、この手がなかなか使いにくくなってきます。なぜなら、素の自分がさらされてしまうからです。

それで感動を与えるほど立派な人もいるかもしれませんが、たいていの人は幻滅を与える可能性が高いですね。

――これは発信者としては、本当に大変な時代ですね。

橋爪 そうですね。だから、それが苦手な人はあまり動画に出ないほうが良いと思います。私はもうすでにして、失敗しているわけです。

――いや、そんなことはないです。

橋爪 ということで、いいたいことは、活字は活字、動画は動画として、両方のいい点と問題点があるので、両方やる場合には戦略をちゃんと持っていないとダメだということです。

1話10分の動画で学べる「大人の教養講座」テンミニッツTVの詳しい情報はこちら

協力・動画提供/テンミニッツTV
https://10mtv.jp/lp/serai/


 

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