はじめに─比企能員とはどんな人物だったのか

皆さんは、比企能員(ひきよしかず)という人物をご存じですか? 能員は、平安時代から鎌倉時代初期に活躍した武将のひとりになります。かの有名な将軍、源頼朝からの信任が厚い人物だったようです。

今回は、そんな比企能員の謎に包まれた人生に迫っていきます。2022年1月9日にスタートする大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、佐藤二郎さんが比企能員を演じます。

⽬次
はじめに─比企能員とはどんな人物だったのか
比企能員が生きた時代
比企能員の足跡と主な出来事
まとめ

比企能員が生きた時代

比企能員が生きた時代は、武士が力を持ち始めた時期でした。平家は朝廷と組んで九州に新たに都をつくって権力の回復を図り、幕府と朝廷の権力争いが盛んに行われていたのです。

そんな中で、能員は頼朝を奉じ、優秀な側近として、着実に権力を築き上げていきました。

比企能員の足跡と主な出来事

能員は、生年月日も父母もよく分かっていません。詳しい記録が残されているのは、頼朝挙兵に伴う功によって権勢を振るうようになってからだとされています。

鎌倉幕府のなかで一、二を争うほどの有力御家人となった能員。しかし、最後は謀殺されてしまいます。今回は、そんな波乱万丈の能員の足跡を辿っていきましょう。

源頼朝の乳母比企尼の養子として育てられる

先ほど説明したように、能員の父母はわかっていません。わかっているのは、比企尼という人物の養子として育てられたということです。比企尼は、源頼朝の乳母とされる人物です。永暦元年(1160)、伊豆に頼朝が配流されると、比企尼の夫である比企掃部允(ひきかもんのじょう)に連れしたがって、頼朝のもとへ行き、援助をしました。

比企尼と比企掃部允の間には3人の娘がおり、その内二人は源頼家の乳母になっていますが、男子がいなかったため、比企尼は甥の能員を養子に迎え、比企氏の家督を継がせたとされています。

頼家の乳母夫に命じられる

そういった生い立ちから、義兄である比企朝宗(ひき ともむね)が没した後、比企氏を継ぐことになった能員。比企尼の縁から、頼朝につき従うようになりました。

寿永元年(1182)の10月に源頼家と北条政子の子、頼家が生まれると、その乳母夫に任命されます。このようにして、頼朝や頼家との信頼関係を築いていったのです。また、この時に、比企尼の二女である河越尼とその妹の比企尼の三女(実名、通称ともに不明)も頼家の乳母として仕えていたとされています。

源義高残党討伐のため信濃に向かう

元暦元年(1184)、頼朝の命を受けて、和田義盛とともに源義高残党討伐を開始。信濃へ向かいます。

源義高は、源義仲の長男で頼朝の娘、大姫と結婚した人物です。父親である義仲が、頼朝の代官として鎌倉を出発していた源範頼と義経の軍に敗れて琵琶湖畔の粟津で討ち死にし、自身も討たれることを知った義高は、大姫の手引きで鎌倉を脱出します。しかし、武蔵のあたりで討たれてしまいました。その残党を鎌倉幕府の初代侍所別当、和田義盛と能員が信濃へと赴いて討伐。

さらに、同年の8月には、平家平定のために源範頼とともに西海へ向かい、翌年の文治元年(1185)の正月に九州へと渡りました。

鎌倉にて、頼朝と平宗盛対面の取次ぎを行う

文治元年(1185)の正月に九州へと渡って平家平定に一躍買った能員ですが、六月には鎌倉へ戻り、頼朝と平宗盛が対面する際の取次ぎを務めることとなります。

宗盛は、平清盛の子どもで安徳天皇を奉じ、一門を率いて九州にて新都経営を目論んだ人物です。しかし、政治家としての力量に欠けていたことから上手くいかず、新都計画は頓挫してしまいます。そして、元暦元年(1184)の一ノ谷の戦い、翌文治元年(1185)屋島の戦いに立て続けに敗れ、同年3月壇ノ浦の戦いで平家滅亡。この時に、宗盛は子の清宗とともに生虜として鎌倉へ送られたのです。

これが、能員が頼朝と宗盛を対面させるに至った経緯になります。ちなみに、宗盛と清宗はこの後近江へ送られたのち、誅殺され、首は獄門にかけられたそうです。

奥州藤原氏追討のため出羽国を平定

文治元年(1185)、平家滅亡に一躍買った能員は、この勢いで奥州藤原泰衡追討に乗り出し、伊豆の武士であった宇佐美実政を伴って出羽国を平定します。出羽国は、現在の山形県と秋田県の一部を含めたあたりです。能員の勢いは収まらず、翌年の建久元年(1190)には、奥州藤原氏の配下であった大河兼任の挙兵に対して、東山道大将軍として上野と信濃の兵を率いて戦いました。

この後、頼朝の上洛に伴い、彼の推挙によって右衛門尉に任じられ、上野と信濃の守護をも務めるように。頼朝の側近として、とても信用されていたことがわかりますね。

十三人の合議制のひとりに加えられる

正治元年(1199)、突然頼朝が亡くなってしまいます。死因は落馬が原因とされていますが、真相は定かではありません。しかし、頼朝が亡くなったことで、急遽幼い頼朝の子・頼家が2代将軍を継ぐことに。

しかし、年齢的にも精神的にも幼かった頼家を案じた幕府は、「十三人の合議制」という仕組みを作りました。選ばれた十三人の有力御家人の合議によって政治を行おうとする仕組みです。鎌倉幕府一、二を争う権力を持っていた能員も、この十三人の中の一人として政治を行っていきます。

加えて、能員の娘である若狭局が、頼家のもとに嫁いで一幡(いちまん)を出産したことで、その地位を盤石なものにしていきました。

頼家から北条時政追討を命じられるも失敗し、比企氏滅亡

頼朝が亡くなってからも、「十三人の合議制」の一員として順風満帆な人生を歩んでいたはずの能員ですが、そうそう上手くもいきませんでした。

頼家が病に倒れると、北条氏がこれを機に頼家の権力を奪おうと画策したのです。それは、頼家の死後に一幡と実朝にそれぞれ諸国の地頭職を譲り渡すという案でした。

このことに不満を抱いた頼家は、能員に時政追討を命じます。しかし、この計画が露見してしまい、仏事ということで呼び出された能員は時政の臣下によって殺されてしまったのです。

翌日には、一幡とともに比企一族が滅亡してしまいました。

まとめ

鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』では、北条氏と同じくらい頻出する比企氏。実は、勢力的には北条氏よりも上の家格であったようです。栄華から没落までを経験した能員の人生は、まさに波乱万丈。鎌倉幕府一、二を誇る有力御家人は、それゆえに大きな力を恐れられ、滅ぼされてしまったのかもしれません。

文/清水鳴瀬(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

 

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