はじめに-梶原景時とはどんな人物だったのか
梶原景時(かじわらかげとき)は、頼朝の危機を救った人物として知られる鎌倉幕府の有力御家人です。賢く切れ者であった景時は、着実に幕府内で権力を強めていきます。しかし、同じ幕府内の御家人の反感を買って、一族もろとも滅ぼされてしまいました。
⽬次
はじめに─梶原景時とはどんな人物だったのか
梶原景時が生きた時代
梶原景時の足跡と主な出来事
まとめ
梶原景時が生きた時代
景時の生まれた詳しい年は分かっていません。しかし、景時の名が知られるようになったのは、源平の合戦以降とされています。朝廷側には平家が、幕府側には源氏がついて、対立を深めていきました。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、13人の一人で、寝返り重臣筆頭となる謎の敵将(演:中村獅童)として描かれます。
梶原景時の足跡と主な出来事
景時は、巧みな弁舌で初代将軍頼朝からも、頼家からも信頼されていた武将でした。その一方、その鋭い弁舌で、他の御家人を讒訴(ざんそ)して排斥することもありました。そんな二面性を持つ景時の人生を辿っていきましょう。
景清と横山党小野孝兼(たかかね)の女(むすめ)の間に生まれる
景時は、相模国(神奈川県)鎌倉郡梶原の豪族出身です。しかし、景時の正確な生年月日はわかっていません。
石橋山の戦いにおいて、源頼朝の危機を救う
生年月日が分かっていないように、景時ははじめから有名な人物だったわけではありません。景時が名を馳せるようになったのは、治承4年(1180)、源平合戦の初期に起こった石橋山の戦いです。
頼朝の側近として有名な景時ですが、石橋山の戦いのときは平家側の人間でした。つまり、頼朝とは敵対する立場。しかし、頼朝のピンチを救って源氏側につくことになります。その後、頼朝に重用され、頼朝の子である頼家が生まれた際には、頼朝誕生の儀を奉行として執り行いました。
義経を頼朝に讒訴し失脚させる
頼朝に従うこととなった景時は、味方であった平家追討に貢献するようになります。平家追討の際には、源義経に同行して、義経の独断行動や、越権行為などを頼朝に報告していたとも言われており、頼朝にとって信頼のおける武士だったようです。
また、文治元年(1185)の屋島攻撃の際に、景時と義経は逆櫓(さかろ)の策で争ったという逸話があります。
『平家物語』の中には「梶原申しけるは、今度の合戦には、舟に逆櫓をたて候はばや」という一文や、「舟はきっとをとしもどすが大事に候。艫舳(ともへ)に櫓をたてちがへ、脇楫(わいかぢ)をいれて、どなたへもやすうをすやうにし候ばや」という一文があります。
景時が屋島の平家を攻めるため、摂津渡辺で舟揃をした際に、逆櫓をつけることを強く主張した時の場面です。このとき、逆櫓とは何かと義経が問うた時の景時が返した一文になります。しかし、実際にそういった櫓の付け方があったのかどうかは定かではありません。
同年3月には長門国の壇ノ浦で平氏一族を滅ぼして、現地で戦後処理にあたっていました。このときに、景時ら関東御家人と義経が対立したことをきっかけとして、景時が頼朝に義経を讒訴し、失脚させてしまいます。
頼朝から後陣奉行に任命される
建久元年(1190)、頼朝が上洛し、法皇と対面する際に後陣奉行に任命されました。景時は、京都の公家の人々とも交流があったようです。京都的な教養を持っており、華道にも通じていたとされています。
加えて、景時は要領がよく、人々を魅了する弁舌の持ち主でもあったそう。巧みな弁舌によって、人を陥れることも多々あったとされています。
頼朝の側近として、権勢を誇るためには手段を選ばなかったということでしょう。
有力御家人66人から弾劾を受けて鎌倉を追放される
このようにして、利己的で権力を求めた景時は、周囲から疎まれることも多くありました。正治元年(1199)、頼朝の死後、結城朝光(ゆうきともみつ)の頼朝に対する思慕を頼家に対する裏切りととった景時が、このことを頼家に讒訴しましたが、逆に有力御家人たちの反感を買ってしまったのです。
そして、66人もの御家人たちから弾劾を受け、鎌倉を追放されてしまいます。弾劾とは、簡単に言うとある者の非行に対してその責任を問い、その者の地位や役職をはく奪することです。
梶原景時の乱を起こし、駿河の在地武士に一族もろとも滅ぼされる
正治2年(1200)の正月、後に梶原景時の乱と呼ばれる騒乱が起きます。なぜ、一族もろとも滅ぼされることになってしまったのか、背景から説明しましょう。
景時は、巧みな弁舌と賢い頭脳で頼朝に信任され、重用されてきました。鎌倉幕府内では、侍所の別当を任されたり、「十三人の合議制」のメンバーにも選ばれたりと、その役職の高さで景時の権勢が伺えます。
ところが、頼朝と頼家、二代にわたって重用されてしまったことが、他の有力御家人たちの嫉妬を買うことに。66人の御家人たちから景時排斥の弾劾文を受け取った頼家は、景時に陳弁を求めたと言われています。
しかし、景時は釈明することが出来ず、一族を率いて相模国へ下向。ここで諦めなかった景時は、一族と共に甲斐の武田有義を将軍にして謀反を起こそうと企てました。
翌年、ひそかに京都へ向かった景時ですが、道中駿河国の在地武士に遮られてしまい、一族もろとも滅んでしまったのです。
一族ごと滅ぼされてしまったことから、いかに御家人から嫌われていたのかをうかがい知ることが出来ます。
まとめ
天台宗の僧であった、慈円が『愚管抄』という書物を残しています。『愚管抄』によると、景時は「鎌倉本体の武士」とされ、頼家「第一の郎党」であったとも記されていることから、鎌倉幕府初期の側近で、かなりの権力があったようです。
また、景時自身もかなり権勢欲が強かったとされています。例えば、当時景時と同じくらい力のある人物として和田義盛がいますが、義盛の役職であった侍所別当職を望んで、臨時別当になったとか。
そして、その役職を9年間も返さなかったとされています。しかし、権勢欲が強く、また賢い頭脳をもっていた景時だからこそ、頼朝や頼家の信頼を得て、ここまでの地位に辿り着けたともいえるかもしれません。
北条氏と頼朝の側近として、非常に忠実であった景時を快く思わなかった御家人はやはり多かったようです。これらのことは、先ほど取り上げた『愚管抄』や、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』、中世初期の軍記物である『平家物語』、『平家物語』同様、琵琶法師が語り物として語った『義経記』などから読み取ることが出来ます。
景時は、様々な人間を讒訴して排斥してきたため、弱い者いじめをする者の例えのように言われることがありますが、「梶原平三誉石切」という歌舞伎などでは、人情に厚い景時の姿が描き出されています。
評価が分かれる景時ですが、いまだに議論されるほど後世に影響を及ぼした将軍であったということですね。
文/清水鳴瀬(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『日本国語大辞典』(小学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)