秋田県湯沢市雄勝町にある「旧雄勝町役場」は、戦後日本を代表する建築家のひとり、白井晟一(1905 – 1983)による初期の名建築です。昭和31年に竣工したこの建物は、火災で焼失した木造の前庁舎を、鉄筋コンクリート造で建て替えたもの。地方の小規模な役場庁舎の建築に鉄筋コンクリートを使うのは、当時としては異例のことでした。
当時まだ白井は建築家としては知る人ぞ知る存在でしたが、秋田県内で既に建築実績があり、立派な庁舎を安く建ててくれると、白羽の矢が立ったといいます。
完成当時はモデル庁舎として、県内外で大いに話題となりました。まだ茅葺き民家が多く、ほとんどの建物が平屋だった時代です。2階建て、鉄筋コンクリート造の堂々たる庁舎に、人々が驚いたのは無理もないことでしょう。
鉄筋コンクリート造2階建ての建物は、2階部分が1階部分よりも外側に迫り出すという特徴的な外観をもっています。1階が行政用、2階が議会用と機能別にフロアが分けられていることも特徴で、2階の柱だけに見られるギリシヤ様式的な意匠は、行政に対する議会の優位性を建築的に表現したものとされています。
当時の地方の役場庁舎としてあまりにも斬新だった「旧雄勝町役場」は、建築雑誌にも紹介され、全国に知られるようになっていました。宮城県仙台市の東北大学で建築を学んでいた藤森照信氏も記事を目にした一人。庁舎の前にテントを張り、夜通し焚き火をしながら見学したといいます。後に“建築探偵”として名を馳せる藤森氏は、探偵活動の第一号としてこの庁舎を選んだのでした。
藤森氏のみならず、名建築として遠方から見に来る人が絶えなかった「旧雄勝町役場」でしたが、老朽化に伴い、取り壊されることが9月に決定しました。近々、取り壊しが始まり、跡地は駐車場になるといいます。見に行くなら最後のチャンスなのです。
【旧雄勝町役場】
住所:秋田県湯沢市横堀字下柴田39
■秋田県と白井晟一との深いつながり
秋田県湯沢市内には、同役場のほかにも、「湯沢酒造会館」など白井の作品が6件残されています。初期~中期の作品にあたり、作風もばらばらですが、試行錯誤の跡を見て取ることができます。秋田の風土が、若き建築家の夢を育てたといえるのです。
白井は昭和20年~40年代にかけて、秋田県南に多くの建築を設計しました。羽後町の「羽後病院」(現存せず)を皮切りに、「旧秋ノ宮村役場」「稲住温泉」「横手興生病院」(現存せず)など、庁舎、旅館、病院、個人住宅まで旺盛な設計活動を行い、秋田に最新の建築文化をもたらす立役者となったのです。
京都府出身の白井は、もともと秋田県と深いつながりがあったわけではありません。一説によれば、戦時中に「稲住温泉」に家財道具を疎開させていたことが最初の縁とされます。建築家としては知る人ぞ知る存在だった白井が、この地域での名声を飛躍的に高めたのが、「旧秋ノ宮村役場」の設計でした。雪深い山間の村に建った庁舎は、冬も屋根の雪下ろしが不要で内部もあたたかく快適そのもの。いつしか、県内各地から仕事の依頼が舞い込むようになっていったのです。
後に「旧雄勝町役場」を手がけることになったのも、そういう背景があってのことでした。
白井はしばし“孤高”の存在だとか、作品も“哲学的”という言葉で語られることがあり、気難しい建築家という印象を持つ人も少なくありません。真相はむしろ逆です。羽後町では寺に集まった住民と歓談するなど、気さくな人物として認知されていたとされます。
一人の建築家の仕事が、地域の文化に影響を与えることがあります。秋田県にとっての白井晟一も、そんな存在といえるでしょう。
文・写真/山内貴範
昭和60年(1985)、秋田県羽後町出身のライター。「サライ」では旅行、建築、鉄道、仏像などの取材を担当。切手、古銭、機械式腕時計などの収集家でもある。