武帝・司馬炎~三国統一さる
司馬昭の跡を継いだ嫡子・司馬炎は、はやくもその年のうちに魏帝を退位させる。父の死に際して打合せずみの行為だろう。曹操が魏王の位にとどまり、その没後、後継者たる曹丕が漢の皇帝を廃し帝位へ就いた故事にならったものと思われる。皇帝・曹奐にこばむ力はなく魏は終焉をむかえ、ここに晋王朝が誕生した。
司馬炎はのち、武帝と称されることになる。人心の抵抗もあったろうが、400年つづいた漢朝滅亡のほうが動揺は激しかったはずである。それから半世紀も経ずしてのことであり、前述のごとく司馬一族は有徳の人という評判を得ようと心がけていたから、この王朝交代は比較的受け入れやすかったのではなかろうか。曹氏もおなじことをしたのだから仕方ない、という思いが人々の胸をよぎったとしても不思議はない。
慎重は司馬家の血筋と見え、晋は残敵・呉の討伐を急ごうとはしなかった。そのあいだに、呉では皇帝・孫晧(そんこう)の暴政がつのっていく。酒や女色をこのみ、宮殿の造営に莫大な費用をかけた。また、意にそまぬ家臣や一族を死に追いやることもしばしばだったという。
もっとも、これらは典型的な暴君譚というべきで、最終的な勝者となった晋の視点でつづられたものだから、鵜呑みにするのは危険である。孫晧がすくなくとも名君ではなく、しだいに呉の国力が衰えていったという程度にわきまえておくのが無難だろう。
建国から14年を経た279年、晋軍は満を持して南下を開始する。ちなみに、このとき主力となった知将・杜預(どよ。「とよ」と読むべきだが、慣例でこう呼ばれる)は現代まで伝わる「春秋左氏伝」の注釈で名高いが、唐代の詩人・杜甫の先祖でもある。翌280年、孫晧はついに降伏。動乱の端緒となった黄巾の乱(184)から、ほぼ100年を経て、三国はようやく一つとなった。
統一のあとに~はてしなき動乱
呉が健在であるうちは身をつつしみ、徳を積まんと心がけていた司馬炎だが、統一をはたしたのちはすっかり気がゆるんだらしい。後宮に1万人もの美女をかかえ、自分でもどの女がよいか決めるのに難儀するほどとなった。あげく、車をひかせた羊の気まぐれしだいで、たどりついた部屋の相手を選ぶことにしたという。そのため、女たちは皇帝のお運びを願って羊が好む塩水を戸口へまくようになり、これが現代でも飲み屋などの玄関先に盛り塩がされる由縁となった。
笑話としてはよくできているが、100年にわたる戦乱をおさめた人物の振る舞いと思えば、唖然とせざるを得ない。くわえて、皇太子は暗愚で知られていたから、王朝の前途にはすでに暗雲が立ち込めていた。
西暦290年、統一後10年を経て、司馬炎が没する。父とおなじ55歳の死だった。予定どおり皇太子が即位するものの、はやくも翌年には、お家騒動が生じてしまう。皇太后(司馬炎の妻)の一族である楊氏の専権をにくんだ者たちが、王族(司馬一門)を抱き込みクーデターを起こしたのだった。これをきっかけに「八王の乱」と呼ばれる動乱が引き起こされる。名称から8人の王族が一丸となって反乱を起こしたように思いがちだが、事情はより複雑である。べつのテーマとなるため本稿では詳述を避けるが、諸王が権力の座をねらってときに結び、ときに相争ったため、晋帝国はすっかり弱体化してしまった。
曹丕と弟・曹植の故事で知られるように、魏では皇帝以外の一門に実権がとぼしく、これが結果として曹氏の衰亡を招いた。晋ではこの例に鑑み、一族の者に多大な権力を与えたのだが、まるきり裏目に出てしまったわけである。司馬一族はじゅうぶんに賢明であり慎重だったと思うが、まこと世はままならぬものというほかない。
晋朝の衰退はとどまるところをしらず、ついに匈奴(きょうど。北方の異民族)の攻撃を受け(永嘉の乱)、滅亡する。316年のことであった。一族の者が南方へ逃れて即位、東晋と呼ばれる国家を樹立したが(これ以前を西晋とする)、一亡命政権でしかなく、世は五胡十六国と称される動乱の時代に逆戻りしてしまう。隋(ずい)によりふたたび中国全土が統一されるのは、じつに西暦589年。黄巾の乱からすれば400年以上のながい戦乱がつづいたことになる。そのうち晋の天下は36年でしかない。まさにひとときの夢であった。
あまたの英雄を生んだ三国志の世界。それでいて三国いずれも天下を統一できなかったというのも皮肉だが、ようやく得た平和もまたたく間に人々の手から滑りおちていった。時代がいまだ動乱を必要としたのだろうか。人間のはかなさを実感せずにはいられぬが、それを知るのもまた、歴史をひもとく醍醐味のひとつにちがいない。
文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。