文/石川美咲(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館学芸員)
「わしは土岐頼芸様にお会いして、一度たりとも立派なお方と思うたことはない。しかし、(斎藤)道三様は立派な主君であった。己への誇りがおありであった。揺るぎない誇りだ。土岐様にも、おぬし(斎藤高政)にもないものだ」
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』美濃編・最終話で長谷川博己さん演じる明智光秀が、長良川の川原で放ったこの一言が忘れられません。光秀が心の奥底では道三(演・本木雅弘)を尊敬していたことがうかがえるシーンでした。越前編では、ユースケ・サンタマリアさん演じる朝倉義景は、光秀の目にはどのように映るのでしょうか。
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明智光秀が結果的に越前を去り、将軍・足利義昭の被官となることで、立身のチャンスを掴んだのは史実です。ですので恐らく、ドラマの中では義景もまた光秀にとっては「立派ではない人」の部類なのかもしれません。
しかし、逆にいえば「道三では手に入れられなかったもの」を頼芸や義景は持っていたともいえるのではないでしょうか。
これは、元亀4年(1573)3月8日付で朝倉義景が常陸江戸崎城(茨城県稲敷市)を拠点とする東国国衆の土岐治英に宛てた書状です。3日後の11日には、義景は将軍足利義昭の要請に応じて一乗谷(福井市)から敦賀(敦賀市)へと出馬しています(3月12日付朽木元網宛朝倉義景書状)。本文中で義景は織田信長との対立に至る経緯を述べるとともに、「信長との合戦が打ち続き、息つく暇もありません」と近況を伝えています。
宛所の土岐治英は頼芸の甥(常陸に移住した弟治頼の子)にあたります。義景は、前年小谷城(長浜市)の大嶽(おおづく)曲輪に在陣した際に、治英の仲介によって兵法伝授の機会に恵まれました。
本状の中で義景は、信長との戦で勝利を得たのは「相伝された秘術の効果です」と述べています。つまり、治英を立てているのです。また治英から贈られた馬具については、「こちらでは珍しい仕立なので嬉しいです」と具体的な理由とともに感謝を伝えています。その返礼として、義景は越前特産の絹を贈りました。
また義景は「近年花押を改めました。怪しまないでください」と追而書(追伸)に記しています。こういう一言があると、受取り手は安心です。そういった細かいところにまで、義景は気を利かせていたのです。このように、義景から治英に対する細やかな気配りが節々から見てとれます。
注目すべきは、この史料が特殊な紙の使い方をしているところです。まず本紙は(1)竪紙(料紙を横長に用いたもの)です。さらに、本紙の上下に付いた折り目から、(2)横内折と呼ばれる折り方をしていたことがわかります(中央の折線は後世の折りの改変により生じたもの)。
(1)・(2)の特徴を持つ文書は、戦国時代の東国で流行した文書の形態でした。いわば「東国限定ローカルルール」です。江戸崎土岐氏にしてみれば、外部との書状のやり取りはこのような様式で行うのが「常識」です。
一方で、通常、朝倉氏が越前周辺および畿内の人物に宛てた文書では、この様式は用いません。したがって、江戸崎土岐氏に非常識と思われないようにするため、朝倉氏はひと手間かけてでもこのやり方を採用したのだとわかります。その方が何かと都合がいいことを、義景も理解していたのでしょう。
相手を尊重する言葉や様式への配慮は、一朝一夕にはできるようになりません。それができるようになるには、書状を交わす上での「作法」(書札礼)に精通したブレーンが側に仕えている必要があるからです。朝倉氏は、こうした「作法」に則った書状のやり取りのできる大名家であったのです。これは、その実績のない大名家では不可能な芸当といえるでしょう。
義景には義景のよさ(らしさ・個性)があったと思います。そうした美濃斎藤氏との違いや朝倉氏「らしさ」に注目して、『麒麟がくる』越前編を楽しむのも一興かと思います。
【参考文献】佐藤圭「土岐大膳大夫入道宛朝倉義景書状」『龍ヶ崎市史研究』9、1996年
石川 美咲(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館学芸員)
平成3年、群馬県生まれ。大阪市立大学大学院文学研究科修士課程修了。平成28年より福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館学芸員。共著に『大河ドラマ歴史ハンドブック麒麟がくる 明智光秀とその時代』など。