【サライ・インタビュー】
小堀鷗一郎さん(こぼり・おういちろう 訪問診療医)
――国立病院の外科医を定年退職後、在宅医療に携わって15年――
「その人らしい死を迎えるため、医師と患者が共に考えることが必要です」
※この記事は『サライ』本誌2020年3月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/齋藤亮一)
──訪問診療に同行させていただきました。
「今日は午前中、看護師と一緒に4軒のお宅を回りました。家族やケアマネージャーを含め、いろんな話をしながら診察しています」
──皆、来診を心待ちにしている様子でした。
「退屈してるからでしょう(笑)。ひとり目の88歳の女性は独り暮らし。長く広告会社で働いていたそうです。心臓がかなり悪いので、薬の飲み忘れがないよう気をつけてもらっています。次の方は重症の糖尿病。3か月に1回採血して薬を出しています。3人目の方は105歳。何の病気もなく、いわゆる老衰ですね。最後の方は95歳だったかな。肺炎を起こし、入院して危機的な状況で、本人が髪振り乱して悪鬼の如き表情で家へ帰りたい〟と言うので、息子さんと相談して家で死なせてあげようと退院させた。ところが、帰宅したら奇跡的に復活して。今日は息子さんが“歩きたいっていうから杖を買ってきた”なんて言ってました。まあ、歩くのは無理としても、とてもいい顔してましたね」
──著書『死を生きた人びと』が好評です。
「僕の初めての本です。はじめ、この堀ノ内病院(埼玉県新座市)での10年余りの在宅医療の看取りの経験を基にして、啓蒙書の形で原稿を書き始めたのですが、途中で挫折してしまい、しばらく放っておいたんです」
──そこから筆を執り直した。
「たまたま書きかけの原稿を読んだ同僚から、事例の描写がひとりひとりの人物を蘇えらせるようで、平凡な市井の人々の死が意味のあるものに思えてくる、と言われましてね。そのとき、そうした記録を残すことは、彼らへの挽歌として意味があるのではないかと気づかされたのです。高齢化社会が進む中で、在宅での看取りへの関心も年々高まっている。みすず書房の創業者のひとり、故小尾俊人さんが古くからの知り合いだったので、その編集部に相談して出版にこぎ着けました」
──映画も各地で上映が続いています。
「『人生をしまう時間』ですね。NHKエンタープライズの女性ディレクターが、堀ノ内病院の看護師寮に8か月余り泊まり込んで在宅医療の現場を取材し、テレビ番組をつくった。それを映画化した作品です」
──祖父は、かの森鷗外です。
「祖父は母の小堀杏奴が14歳のときに亡くなっているから、直接は知らないんです。だけど『鴎外全集』に囲まれて育ったようなものだから、作品はたくさん読んでるし、子供の頃から“おじいちゃんはああだった、こうだった”といろいろな話を聞かされてました。母の『晩年の父』をはじめ、一族がさまざまな随想を書き残してもいるし、当然、意識はしますよね。母は著書に《父ほど利他そのものの人物を感じさせた人は他にない》なんて綴ってます」
──医師になったのも鷗外の影響ですか。
「中学の同級生に、医者の息子で天才的に優秀な塚原己成くんという友人がいて、中学卒業を前に、いかに医者がすぐれた職業かを説き聞かされ、君も医者になるべきだと助言半分の命令を下された(笑)。それがきっかけです。
祖父とは関係ないし、両親と相談したわけでもない。父は画家でしたし、母も絵が好きで、仲人は洋画家の藤島武二。たぶん両親は、僕が芸術関係の仕事につくのを望んでいたんでしょうね。だから、成城学園小学校という自由教育の学校に入れた」
「東大医学部を出て医者になるまで試験はトータルで7勝8敗でした」
──どんな学校だったのですか。
「教壇もない、宿題ない、試験ない、通信簿ない、というユニークな学校です。文学の時間や映画の時間とかあって、自分たちでしょっちゅう劇なんかやる。そうやって遊びながら学んでるうちに、エスカレーター式に中学、高校、大学まで行ける。僕は小学生の頃は、盛んに俳句をやってました」(笑)
──それが突然の進路変更で医師を志した。
「成城学園での9年間は、受験に対応するような勉強を全然やってませんから、その後が大変でした。当時は都立の進学校に入って、そこから東大の医学部を受けるというのが医師になるための一般的なコースでした。それで、規定路線の成城学園高校に進学せず、都立戸山高校の試験を受けるんですが、落ちるわけです。とりあえず國學院久我山高校に入って、1年の夏学期にまた戸山高校の試験を受けるがまた落っこちる。そうすると久我山に戻れないから、城北高校に籍を置いて、2年生になってから戸山高校を受けて、今度は合格する。そういうふうに1勝2敗の繰り返しみたいなペースで進んで、結局、東大の医学部を出て医者になるまで、トータルで7勝8敗でした」(笑)
──東大卒業後は外科医になりました。
「65歳の定年まで、東大附属病院第一外科と国立国際医療研究センターに外科医として勤務しました。専門は食道がんで、たくさんの手術を行なってきました」
──定年後に現在の堀ノ内病院に移った。
「国際医療研究センターでの最後の数年は院長をしていたのですが、そうすると定年後は、たいてい都内の病院の院長か財団の理事長になって終わる。
僕はまだ現場で手術をしたかったから、堀ノ内病院を選んだ。じつは当時院長だった小島武(現・理事長)は、大学の同級生なんです。僕が若いときは、昼は東大で手術して夜は堀ノ内で手術して、そうやって外科医としての腕を磨いた。そんな恩義もあるので、何かお返ししたいという気持ちもありました」
──そこで在宅医療と出会った。
「移って2年後、たまたま退職する同僚から頼まれて、ふたりの患者の訪問診療を引き継いだのが始まりです。医師が患者宅を訪問して成り立つ在宅医療というジャンルがあることを、僕はそのとき初めて知りました。当初は深く考えることもなく、手術や外来の仕事をしながら合間に往診していました。往診依頼の数は次第に増えて、僕が70歳になって手術をやめる頃には急激に在宅の患者が多くなり、やがて100人を超えました」
──外科と在宅医療は内容が異なりますね。
「まったく違います。外科で手術をしている頃は“救命・根治・延命”。命を救って、治して、1分1秒でも長く延ばす。それがすべてです。だけど、訪問診療の世界ではそうでない医療も考えなければならない。たとえば97歳のおばあちゃんが、調べても悪いところが何もなく、ただご飯が食べられなくなり、歩けなくなって、眠ってばかりいる。次第に衰えて死に近づいていくのを、静かに見守る。そういう医療もあるわけです」
──あえて特別な積極的治療をしない。
「だって、食べられないから病院に入れて点滴するといっても、そういう人はもう、静脈内に水を入れても体が受け付けない。むくむし、痰がからんで咳は出るし、却って苦しむわけですよ。今はだんだん時代が変わって、多くの人が従来の医療のあり方に対して疑問を持ち始めていますよね」
──何か転機となる体験がありましたか。
「長男夫婦と同居する101歳の女性の訪問診療をしていたときのことです。女性は次第に食事が摂れなくなり、ある日、100mlの清涼飲料水を飲んだあと眠りに入り2日間目を覚まさなかった。当初は家族も在宅看取りの方針でいましたが、患者が息を吐くときに発するかすかな息遣いを“可哀相で見ていられない”と長男が言い出して救急搬送で入院。中心静脈栄養による栄養管理と人工呼吸器の装着が行なわれました。
長男や長女、次女は初めの1か月こそ頻繁に病床を訪れましたが、次第に足が遠のき、患者はその後10か月余りを暗い集中治療室の中でひとり生き続け、死亡確認は夜勤の看護師がナースステーションで平坦になっているモニターに気づいたときでした」
「往診を終え駐車場に入ってきてばったり倒れて死ぬのが理想です」
──そばで看取る人はいなかった。
「長男を責めるわけではありませんが、これは“病院の孤独死”ともいうべき事例と感じました。彼女が迎える“望ましい死”は、家族や主治医、介護関係者に囲まれて自宅で小柄な体を丸めて横たわっていた、10か月前の老衰による死だったはずです」
──延命だけが最高の選択肢ではないと。
「それまで僕は100%、患者さんや家族の要請通りに対応していたのが、それからは自分の意見を伝えるようになりました。もちろん、在宅死がすべて素晴らしいわけじゃない。そうでない例もあります。独り暮らしの末期がんの患者さんで、一度帰宅したのを本人が気持ちを翻して再入院。チューブにつながれ輸血して、非常に幸せそうな笑顔になって。入院死が天国ということもあるわけです。
高齢患者の訪問診療の場合、だいたい平均で4~5年というおつきあいになります。その中で、いかにしてその人らしい死を迎えてもらえるか、共に考えるということでしょうね。元フランス大統領のフランソワ・ミッテランが、“死によって人間は自分が本来そうなるべき姿に導かれる”と語っています」
──患者がいい在宅医に出会うためには。
「僕がお奨めしたいのは、まずは近所のかかりつけ医を見つけることですね。たとえば、熱が出たときに大病院でなく近所の医院に行くんですよ。そして、その医師と相性が合うかどうか。相性がよければ、“先生、私が動けなくなったら来てくれますか”みたいなことを聞いて、まずかかりつけ医を持つ。それが重要でしょう。なかなか見つからないときには、各地の包括支援センターとか公の介護センターを訪ねる。スタッフは地域の医者の実情を全部知ってますから、そこで聞いていい医者を探していく。家族とのコミュニケーションも大事です。自分が家で死にたいと思っても、いざというときに伴侶や子供が“苦しそうな様子を見てられないから入院させる”と言えば、それで終わりですからね」
──自身の健康管理で気遣っていることは。
「自分の体のことは、あんまり調べないですね(笑)。この病院の義務で1年に1回、胸のレントゲン写真をとって、血液と尿を検査する。それしかやってない。ただやっぱり、年齢とともに仕事は減らしてます。働く日数や時間もですが、何より往診の数ですよね。今は医師5人、看護師ふたりの体制を組んで
いますが、僕ひとりのときは月に100件以上回っていたこともあるんですよ。そのときはさすがに限界で、肺炎になって倒れました。徐々に減らして、今は月に20数件ですかね。
もうひとつ、僕はランニングをやってましてね。レースに出るため、普段からそれなりの練習をしてるから、自分の体力がどのくらい落ちてきてるかわかるんですよ。ランニングを始めた50代の頃はkm3分30秒くらいで走れたのが、今は7分そこそこ。最近は1年に10~20秒くらい落ちてるんじゃないかな。そういうふうに客観的なデータを持ってるんで、その分無理せず仕事を減らしています」
──それが現役を継続する秘訣でもある。
「この仕事はね、できるだけ長く続けたいんです。奥が深いですからね。いろんな人といろんな話をする。いろんな人生があって。それは大変なことですよ。在宅医療に関わらなければ、知ることのない世界でした」
──自分の最期について、思い描く姿は。
「いつも訪問診療に使っている愛車のパジェロ・ミニで、仕事を終えて駐車場に入ってきて、ばったり倒れて死ぬっていうのがいいですね。あと5年も経つと往診件数は月10件とか、だんだん減っていくでしょうけど、それを続けている途中でばったり斃れる。そんなふうに死にたいと、よく喋ってるんです」
小堀鷗一郎(こぼり・おういちろう)昭和13年、東京生まれ。祖父は文豪にして陸軍軍医総監をつとめた森鴎外。母は随筆家の小堀杏奴 。東京大学医学部医学科卒業。東大附属病院第一外科、国立国際医療研究センターで、外科医として約40年間活躍。定年退職後、堀ノ内病院に勤務し在宅医療に取り組む。著書『死を生きた人びと』で、第67回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。
※この記事は『サライ』本誌2020年3月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/齋藤亮一)