文/印南敦史
五輪まであと一年ということで、東京ではあちこちで工事が進められている。ここにきて再び街が変わろうとしており、我々はまさにその瞬間を見届けているのだ。
そこでこの機会に読んでおきたいのが、今回ご紹介する『東京のナゾ研究所』(河尻 定著、日経プレミアシリーズ)である。
東京はこれまで、幾度も大きな変革期を迎えてきた。徳川家康の登場、明治維新、関東大震災、太平洋戦争、東京五輪、そして1980年代のバブル経済--。2度目の東京五輪も、歴史の1ページを飾るだろう。破壊と創造は、この街の宿命なのかもしれない。(本書「まえがき」より引用)
著者が日経電子版で2011年4月から連載を続けている「東京ふしぎ探検隊」を加筆修正し、書き下ろしを加えたもの。その名のとおり、実際に街を歩いて気づいたというさまざまな「不思議」に焦点を当て、そこから東京の成り立ちや歴史にまで話を進めている。
なにしろキーワードが「不思議」なのだから、よくある東京ガイド本とは趣が異なり、とてもユニークな内容だ。今回はそのなかから、第4章「なぜ『ビルヂング』が消えるのか」に焦点を当ててみたい。
オフィスビルが立ち並ぶ東京・丸の内において、大正時代から親しまれてきた「ビルヂング」という名称が消え、新たに「ビルディング」として生まれ変わっているというのだ。
◾10年間で14棟がビルディングに名称変更
東京駅の皇居方面にそびえ立つ「丸ビル(丸の内ビルディング)」と「新丸ビル(新丸の内ビルディング)」には、2002年に建て替えられるまで「丸の内ビルヂング」という名前がつけられていた。
丸ビルをはじめとして丸の内に多くのビルを所有する三菱地所では、これまで使っていた「ビルヂング」という名称を2002年以降、建て替え時に「ビルディング」に切り替えていく方針で進めているのだという。
2019年5月時点で丸の内周辺に残っている「ビルヂング」は11棟ある。2002年当時はビルヂングを冠したビルが30棟ほどあったが、20年足らずでほぼ3分の1に減ったことになる。残った11棟はどうなるのか。再開発の計画は未定だが、築年数が長い物件が多く、いずれは建て替えとなる公算が大きい。(本書137〜138ページより引用)
だが、なぜ名前を変えてしまうのだろうか? この点について著者が三菱地所に聞いてみたところ、返ってきたのは「旧丸ビルの建て替えを皮切りに、丸の内再開発の第一ステージが始まりました。これを大きな区切りととらえたのです」との答え。
当然ながら、旧丸ビルを建て替えるときにはさまざまな議論があったが、結果的には「丸の内を生まれ変わらせる」という意気込みが、名称変更につながったということだ。
◾なぜ「ビルヂング」だったのか?
だがそもそも、同社の物件はなぜ「ビルヂング」だったのだろうか? この件について著者が歴史をひもといた結果、「ビルヂング」の登場も大きな転換点となっていたことがわかったと著者は言う。
明治維新以降、現在丸の内がある場所は官有地として陸軍省などが管理していた。1890年(明治23年)に、岩崎弥太郎の弟で三菱2代目社長の岩崎弥之助が一帯の払い下げを受けたのが、丸の内の歴史のスタートラインである。
1894年(明治27年)には、丸の内初のオフィスビル「三菱第一号館」が完成。第二号館、第三号館がこれに続き、大正時代に入ると、より近代的で機能的なオフィスビルが求められるようになる。
先駆けとなったのが、1918年(大正7年)竣工の「東京会場ビルディング」で、その特徴は外観である。装飾性を重視した欧州式から外観をシンプルにまとめた実用重視の米国式へと転換を図ったのである。
東京海上の社史によれば、日本で「ビルディング」という名称を使用したのはこれが最初だったのだそうだ。
「丸の内ビルヂング」が登場するのはそれから5年後の1923年(大正12年)2月、関東大震災の直前のことだ。米国式の大規模ビルで、初めて建物内に商店街ができたビルでもあった。
「東京海上ビルディング」と「丸の内ビルヂング」が並ぶエリアは「一丁紐育(ニューヨーク)」と呼ばれ、それまでの「一丁倫敦」とは違う、新しい東京を象徴する街並みとして話題を集めた。三菱地所の担当者は「欧州式から米国式への転換点という意識が、それまでの三菱地所何号館という名前から『ビルヂング』への名称変更につながったのではないか」と話す。「丸の内ビルヂング」以降、同社が建てるビルは「ビルヂング」が基本となった。(本書140ページより引用)
ちなみに、なぜ「ビルディング」ではなく「ビルヂング」だったのかについては、はっきりとしたことはわからないのだとか。諸説あるようだが、つまりは当時、「building」に当てはまるカタカナはまだ定まっていなかったのだろう。
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東京出身者、あるいは長きにわたって東京で暮らし続けているという人でも知らなかったような話題が満載。そのため、読み物として非常に楽しみがいがある。東京をより深く知るために、ぜひ読んでみていただきたい。
『東京のナゾ研究所』
河尻 定著
日経プレミアシリーズ
定価:本体870円+税
発行年2019年7月
文/印南敦史
作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。音楽雑誌の編集長を経て独立。複数のウェブ媒体で書評欄を担当。著書に『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』などがある。新刊は『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)。