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【インタビュー】坂田 明(ミュージシャン・74歳)「引退するとしたら、死んだときです。100歳までサックスを吹き続けていたい」

【サライ・インタビュー】

坂田 明さん
(さかた・あきら、ミュージシャン)

――半世紀を超える音楽活動、出演映画『よあけの焚き火』が公開中――

「引退するとしたら、死んだときです。100歳までサックスを吹き続けていたい」

古馴染みの東京・新宿のライブハウス『ピットイン』でサックスを吹く。今も年におよそ100ステージを各地でこなす。海外公演も多い。「僕は音楽を通して“生きる”ことの表現をしている」

古馴染みの東京・新宿のライブハウス『ピットイン』でサックスを吹く。今も年におよそ100ステージを各地でこなす。海外公演も多い。「僕は音楽を通して“生きる”ことの表現をしている」

※この記事は『サライ』本誌2019年6月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工)

──出演した映画が公開中です。

「650年続く狂言方の親子を描く『よあけの焚き火』(※上映館は公式サイトhttps://yoakenotakibi.jp/参照)という作品で、僕はその親子の稽古場の近くに住むお爺さん。大蔵流という実在する狂言方の親子が演じているんだけど、親から子へ伝えていくってすごいことですよ。父親と子供は“よろしくお願いします”と挨拶をしてから稽古を始め、“ありがとうございました”とお互いに挨拶をして終える。これは何かというと、教える側も教えることによって自分も学ぶことがあるということだよね。親は最初から親ではなく、子供と付き合うことによって親になっていく」

──自身の子供のころはどうでしたか。

「僕は広島県呉市の長浜というところに生まれ、父親は運送屋をやってました。兄弟は妹ふたりで、兄貴がいましたが僕が生まれたころにハシカで亡くなりました。文化的、音楽的な資質は、母方から受け継いだのかもしれない。母方の祖母というのが大の芝居好きで、母の兄弟にもアコーディオンやギターを弾いたりする人がいた。ところが、親父のほうは流行歌のレコードを聴くぐらいでした」

──太平洋戦争末期の生まれです。

「生後6か月で終戦です。呉は軍港で、軍艦を造る海軍工廠とか水上飛行機や魚雷を造る海軍の航空廠があったから、3回くらい、大空襲を受けてるんです。戦後、その空廠の跡地へ連合国軍が進駐しました。そんな環境で、なんとなしに外国文化に触れたんだと思う」

長閑な風景が広がる昭和30年代の広島県呉市の自宅前。立っているのが坂田さん(小学6年生のころ)。右から坂田さんの妹、母。

長閑な風景が広がる昭和30年代の広島県呉市の自宅前。立っているのが坂田さん(小学6年生のころ)。右から坂田さんの妹、母。

──ジャズを初めて聴いたのは。

「中学2年生のときです。僕はラジオ少年で、自作の鉱石ラジオでモスクワ放送や北京放送なんかを聴いていた。ある日、家のラジオから『墓にツバをかけろ』というフランス映画のテーマ曲が流れたんです。『褐色のブルース』というモダン・ジャズでした。そのころは、“高校に入ったらトランペットをやりたいな”、って漠然と思っていました」

──最初はトランペット志望だった。

「地元の高校に進学してブラスバンド部に入ったんだけど、軍楽隊の払い下げとかいうボロボロの楽器しかない。トランペットもいいのがなくて、クラリネットから始めました。いい加減なブラスバンド部でね、教える人がいない。皆、自己流で勝手にやってた。僕もそのままプロになって勝手にやってる」(笑)

──アルトサックスはいつ始めたのですか。

「広島大学のジャズバンド(同好会)に入ってからなんだけど、親戚を言いくるめて“あとで必ず返します”っておカネをかき集めてサックスを買いました。18歳のときです。そのおカネは、いまだに返してませんけどね(笑)。

そのころ、渡辺貞夫さんがアメリカのバークリー音楽院から帰国し、通信教育でジャズを教えているというので10か月ぐらい受講しました。渡辺さんが講師のスクーリング(授業)が3か月に1回あって、そのころはもう付き合っていた嫁さんと京都や大阪まで行きました。嫁さんは同じジャズバンドでピアノを弾いてたんです。スクーリングでは、僕が4本のサックスに編曲した宿題を、僕と一緒に貞夫さんはほかのふたりと吹いてくださり、実際に音がどう響くのかを体験できました」

顕微鏡を通して見るミジンコの姿を画面上に映し出す。画面右下の黒い丸が目。「ミジンコは飼い主が愛情を注いでも反応はない。ミジンコはミジンコの都合で生きてるんだよね」

顕微鏡を通して見るミジンコの姿を画面上に映し出す。画面右下の黒い丸が目。「ミジンコは飼い主が愛情を注いでも反応はない。ミジンコはミジンコの都合で生きてるんだよね」

「僕にとって音楽は生きる糧。ジャズではなく“音楽”をやってるんです」

──地元の広島大学へ進学しました。

「広島大学では水畜産学部で、ミジンコなどのプランクトンの研究をしていました。普通は教授の推薦をもらって卒業したらどこかの会社に就職するところなんだろうけど、“僕は就職しません、東京へ行ってジャズをやります”って先生に言って上京してしまった。

若さもあったと思うけど、僕にとってはやむを得ないことだったんだよね。これからどういう人生を生きていくかということが、既に僕の中にあったから。それは21歳のとき、広島公会堂でジョン・コルトレーン(※米国のジャズサックス奏者(1926〜67)。1960年代以後のジャズに多大な影響を与えた)のコンサートを聴いちゃったからね。音楽でここまでできるっていうのを見ちゃったからね。つまり、コルトレーンの演奏の中にある『人生』というものを見たんだね。その人生が僕の方向を決めてしまった。“あのように生きよう、そっちへ行くんだ”と。そうしたら、そっちへ行くためにはどうしたらいいのかという方法論を、自分なりに一生懸命考えたうえでの上京だったわけです」

──東京へ出てからはどのような暮らしを。

「いきなりプロの演奏家としてやっていけるわけはないので、初めは運送会社に就職しました。トラックの運転手です。実家が運送屋で、大型免許を持ってましたから。そこで面接してくれた人に“国立大学の新卒で履歴書を持って運送屋に来るなんて、あんた、ちょっとおかしいんじゃないか?”なんて言われましたけど(笑)。でも、やっぱり会社の人たちと話が合わなくてね。しばらくいて、デザイン事務所に移りました。

実はね、嫁さんとは一緒に上京したんです。留年して大学に6年いたら、嫁さんと卒業が同じになってしまった。嫁さんは教育学部で教員免許を取ってたから、東京都の小学校の先生になり、その年の11月に結婚しました」

──それからは演奏活動に取り組んだ。

「昼間は仕事をして、夜はいろんなライブハウスで演奏をしました。そうして辿り着いたのが、感じたままに、即興でやるフリー・ジャズです。東京へ出てプロになろうと思ってからもいろいろと考え、渡辺貞夫さんの後を追っかけても敵わないと思ったし、僕よりうまいミュージシャンもたくさんいる。可能性があるとしたら、貞夫さんのやっていないことをやるしかない。自分なりに力一杯吹こうと思ったら、そこに行っちゃったんだね。

ガリ版刷りで自分のライブのチラシをつくって配ったりしたけど、お客さんがゼロということもありました。でも、ステージの照明が当たればそんなことは関係ない。従業員に向かって思いっきり吹いていた(笑)。あるとき、お客さんが劇作家の寺山修司さんひとりだけで、それも店の人が“寺山さんが怒って帰りました”って言う。“なんだよ、それ”って訊くと、“こんないい演奏をしてんのに、なんで客がいないんだ”って怒って帰ったという。そのときは、勇気が出ましたね」

──その後、山下洋輔トリオに参加します。

「きっかけは、女優の藤純子(富司純子)さんの引退記念というテレビ番組に山下トリオの森山威男さんと出演してサックスを吹いたら、それを山下洋輔さんが見ていた。それから、山下トリオのライブにときどき呼ばれるようになり、まもなく正式にメンバーとして迎えられました。昭和47年の暮れでした。

山下洋輔トリオでは、一流のバンドというのはこういうものか、と思い知らされました。ギャラも違うし客層も違い、有名人がいっぱいいる。ヨーロッパツアーにも行きました」

──異次元の体験だった。

「7年間参加し、昭和54年の大晦日でひと区切りつけました。そのあとは試行錯誤をしながらさまざまな音楽活動を続けてきましたが、それは食うためというより、生きるため。僕にとって、音楽は生きる糧。それからは世界中を巡り音楽や音楽家と出会い、国境やジャンルを意識しなくなった。僕はジャズというよりも、“音楽”をやってると思っています」

──ミジンコの研究でも知られています。

「そもそもは、子供が夜店の金魚すくいの金魚を持って帰ってきて、水槽に入れたら成長し、産卵孵化して、ものすごい数になってしまった。その餌に“そうだ、ミジンコだ”と思ってね。そしたら近所の農業用水にミジンコがたくさんいて、それを持ち帰ってきたのが、ミジンコとの付き合いの始まりです」

観察のため、スポイトでミジンコを1匹だけ採取する。大学時代はミジンコを含むプランクトンの実態を研究。その際に学んだ方法論や方程式が今も役立っているという。

観察のため、スポイトでミジンコを1匹だけ採取する。大学時代はミジンコを含むプランクトンの実態を研究。その際に学んだ方法論や方程式が今も役立っているという。

「命は支え合いながら繫がってる。そのバランスの中に人間もいる」

──金魚の餌から、観察を始めた。

「ミジンコを顕微鏡で覗くとね、体が透けて見える。命が透けて見えるんです。そこには“ミジンコがミジンコをしている”という厳粛な事実がある。これを人間に置き換えてみるとね、“人間として生まれ、人間として育ち、成熟し、人間として死んでいく”過程が人生の理想とすると、人間は果たして人間をしているのか、ということを考えるわけです。

命は互いに支え合いながら繋がってることを思い知らされる。飼っている金魚も可愛いけど、ミジンコも可愛い。でも、ミジンコを金魚の水槽に入れると、金魚はものすごい勢いで食べてしまう。この宇宙に、生きとし生けるもの、形あるもので役割をもたないものはひとつとして存在しない。人間が生きていくのにも莫大な数の生命が絶妙なバランスでつくる世界が必要だけど、現代の文明社会はその生命に感謝する気持ちさえ忘れている。僕の中ではこうした問題意識が、命というひとつの線で音楽とも繋がっているんです」

──57歳のときに大病をされたとか。

「もともと血圧が高くて薬を飲んでいたんですが、脳溢血になりまして。朝起きて、自分では気づかなかったんだけれど、嫁さんが呂律が回ってないと言う。かかりつけの医者に電話すると“それは脳だろう”というんで、近くの総合病院に行ったらそのまま入院。処置が早かったから、2週間で退院できました」

──退院してすぐ復帰できたのですか。

「呂律は回らないし、字も書けない。2か月は完全にボーッとしていました。復帰しようと思ってサックスの練習を始めたら、どうやって吹いていいのかわからない。脳の左側をやられて右半身に影響が出ているから、体のバランスが崩れていたんです。そのバランスをもとへ戻すためには、体の芯がどこにあるのかを探さなきゃならない。それで、体幹を鍛えるということを、自分なりに考えてやってたんだけど、そのうち安光達雄さんというトレーナーに出会い指導を受けました。

それからはジムでのトレーニングを12~13年やって、いまではヨガマットとゴムチューブを使い、ツアー中でも欠かさず、世界中どこへ行くんでも持っていって毎日やるようにしています。結局、運動を続けるということはね、演奏がきちんとできるということに繋がるわけなんですよ。それは、演奏が終わったら楽しく酒が飲めるということにも繋がる(笑)。なんだかんだで、酒は気持ちよく飲めていますからね。酒は元気のバロメーターであります」

──引退は考えていますか。

「僕には引退はありません。あるとしたら、それは死ぬときでしょう」

──自身の死については。

「漠然と“ぴんぴんコロリ”で逝ければいいとは考えてますけどね。ただ、球を遠くに投げようとするとき、その発射角度を、ある程度遠くに向けようと思ってないと駄目なわけです。つまり、90歳とか100歳を目指して生きようと思ってないと、そこまではいけないと考えています。やっぱり、老化には勝てないんです。僕は老化に勝つつもりは全然ないんだけど、どこまで生きられるのかということは試してみる価値があると思う。試していると、日々、楽しいからさ。演奏もね、もともとが下手くそだったんですけど、この歳になって、微妙なところでどんどん上手になってるという自覚があるんですよ。

こないだね、渡辺貞夫さんと話したら、貞夫さんは僕のひと回り上ですからいま86歳ですが、元気なんです。それで、“貞夫さん、いつまで演奏やるの?”って訊いたら“100歳だよ”って。これには参りました。僕はそれまで90歳、と言ってたんだけど、上方修正します。貞夫さんが100歳なら、僕も100歳までやります」(笑)

自宅の庭で愛犬の瑠璃子(1歳)と。後ろは水槽や飼育の器具類。庭にはかつて八重桜があり、仲間たちが集って毎年、花見をしたという。

自宅の庭で愛犬の瑠璃子(1歳)と。後ろは水槽や飼育の器具類。庭にはかつて八重桜があり、仲間たちが集って毎年、花見をしたという。

坂田 明(さかた・あきら)昭和20年、広島県生まれ。広島大学水畜産学部卒業後、上京してジャズサックス奏者として活動を始める。昭和47年、山下洋輔トリオに参加。その後もさまざまなグループの結成と解体を繰り返しながら、音楽界の最前線を走り続けている。平成15年、長年のミジンコの研究・普及活動が認められて日本プランクトン学会より特別表彰を受ける。著書に『私説ミジンコ大全』など。

映画『よあけの焚き火』より。作中、狂言方親子が稽古を積む長野県茅野の家を訪れる坂田さん。近所に住む水道屋で、何かと親子の面倒を見るという役柄を演じる。(写真提供/桜映画社)

映画『よあけの焚き火』より。作中、狂言方親子が稽古を積む長野県茅野の家を訪れる坂田さん。近所に住む水道屋で、何かと親子の面倒を見るという役柄を演じる。(写真提供/桜映画社)

※この記事は『サライ』本誌2019年5月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工

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