堀文子さん逝去
日本画家の堀文子さんが、2月5日(火)午前0時56分、心不全のため神奈川県平塚市の病院で亡くなりました。100歳でした。堀さんは、『サライ』誌上で平成12年より現在まで、連載『命といふもの』に作品を寄せていただきました。ご冥福をお祈りします。

訃報に接し、2002年9月5日号に本誌掲載されたインタビューを掲載いたします。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/塙ちと 撮影/高橋昇)

「堀文子 お別れの献花」ご案内

3月25日に、「堀文子 お別れの献花」が行われます。詳しくはこちらまで。

サービス精神旺盛で人が大好き。だから逆に人との付き合いを避け、絵に没入できるよう都会を離れた自然のなかに住む。神奈川県大磯の自宅で。

サービス精神旺盛で人が大好き。だから逆に人との付き合いを避け、絵に没入できるよう都会を離れた自然のなかに住む。神奈川県大磯の自宅で。

齢80を超してから、青い芥子を求めてヒマラヤを登った画家

「旅はひとり。事前に調べもしない、“行ってから驚く”体験主義者です」

——微生物を描いた日本画展が大盛況でした。

「思いの外、みなさまに来ていただいて。今年の5月、東京銀座の小さい画廊『ナカジマアート』で発表いたしました。今までは自然を中心に描いてきましたので、なぜ微生物を、とよく聞かれました。私が微生物の存在に惹かれたのは子供の頃ですが、その後何十年も途絶えていた心残りに火がついたのは、昨年の春の病気がきっかけでした。突然の痛みで緊急入院し、あれで意識がなくなれば、死んでいたんですね。いわゆる死線を彷徨ったといえる状態。動脈瘤だったそうです。でも不思議なことに、翌朝、痛みがまったくなくなっていました。私の体の細胞が懸命に働いてくれて、わずかひと晩で治ったんです」

——素晴らしい生命力ですね。

「小さい細胞が戦ってくれ、私は生かされたわけです。この事実に驚くと同時に、目に見えない生命の働きを掌る存在、微生物にとても惹かれました。それで早速、高性能の顕微鏡をアトリエに備えました。この“顕微鏡の世界”は大変に美しくて、ひと晩中眺めていても、まったく飽きないくらい。目に見えない微細な生物が食べたり、排泄したり、子孫を増やしたりと、命の営みを行なっているんです。生命の神秘の一端を、垣間見たような気がしましたよ。その感動した微生物を描きまして、今年の展覧会に出したわけです」

——生物への興味が深くなった、と。

「もともと自然科学には、人一倍、関心が強いほうでしたね。子供時代の愛読誌は『子供の科学』でしたし、今は『Newton』。いちばんなりたかったのは科学者でした。生命とか宇宙とか、自然科学に熱中したいと思っていましたね。ところが、70年近く前は、女子はハンディ(不利な条件)が多くて、希望の学校へ進めない社会状況でした。女学校時代に、ずいぶん悩みましたよ。今でも覚えているのは、国語、物理、化学、音楽、体育、手芸……など科目の一覧表を書き出して、ひとつずつ可能性を消していくの。そうすると、絵が残るんです。そんなに好きでもないのに」(笑)

——でも、絵を選ばれた。

「私は非常に生意気ですから、女子にハンディがあるという屈辱的なことに怒っていたわけ。第一、『女子』と名が付く学校にしか入れない社会だったんですよ。自立して、自分で自分の生涯を設計していく人間になりたいと、私は願っていましたのに。そんななかで、美には女性ゆえのハンディはない、と思ったわけです。女性である私も、自分の思いどおりに、青い色や赤い色を塗れるわけでしょ。それで、最初は油絵を描いていました。日本画は私の気持ちにはそぐわない存在でした。師匠に弟子入りする形が、私には前時代的なものに思えたんです。でもね、私は理屈っぽく、日本画を選んだんです」

——理屈っぽいから、ですか?

「当時はね、外国の絵は殆ど印刷物でしか見られなかったんですよ。レオナルド・ダ・ビンチの絵といっても、原画を見られないんです。印刷物を見て学ぶのはよくないと考えてしまったんです。日本画でしたら、原画は豊富に見られるわけ。日本人が日本画を描いてきた必然性があるはず、なんて理屈で考えて、日本画を志したんです。まぁ、思ったとおり、私の体質と日本画とはすんなりとは合いませんでしたね(笑)。洋服のサイズが合わないような、衿回りが違っているような、そんな感じはずっとありました」

——現在も違和感があるのですか。

「今、齢を重ねて、私はとっても自由です。もう団体には所属していませんし、師匠も弟子もおりません。ミジンコを描こうと何を描こうと、私ひとりで好き勝手にやっておりますよ(笑)。群れていては、絵というものは描けません。人間はひとり——私のこの基本的な精神は、5歳のときに形成されたんです。大正12年の関東大震災のときでした。周りが一瞬のうちに焼け野原になるのを目の当たりにし、親といえども頼れない、いっさい何者にも頼れないんだと、そんな気持ちが全身を貫いてしまったんです。世の末を見たといえばいいでしょうか。それ以来、心の底に虚無感が潜むようになりました」

——それで、命への想いが強いのですね。

「ええ、そうでしょうね。人間というのは、子供のときに“その人間の平面図”ができあがってしまうのではないでしょうか。成長するにつれ、さまざまな体験が立体図を形成していきます。でも、基本の平面図からは逃れられない。そんなふうに感じます。私は自我の強い子供でした。お座敷にボール紙で囲いを作り、自分の部屋を作って、誰も入らないようにと宣言したり(笑)。大人になって、肉親とでも同居するのは嫌でしたね」

「文化は風土の中から生まれます。西洋から帰ってきて、私の原点は日本の風土だと気付きました」

——ご結婚をなさっておられますが。

「結婚には不向きな人間と思っていました。家庭を作り、家族に尽くせば、命がけで守りたい自由が奪われてしまいます。けれども、戦争に反対していたふたりの兄弟が戦死したとき、私だけが身勝手に自由を追求してはならないと思ったんです。そんな時期に相手が現れました。28歳のときです。私からの条件は、裕福でないこと(笑)。養われるという感覚が嫌でしたからね。外交官で大変頭がよく、尊敬できる人で、そして体の弱い人でした。ですから、ほとんど看護婦のように尽くして、14年。その間、絵本などを描いて食いつなぎました。それも私にとってはいい時間でした。そんな重みをあえて求めた私なんですが、現実はなかなか苦しい生活でした。精神的には充実しておりましたけれども」

——42歳のとき、ご主人が亡くなられて。

「背負っていた荷物が、突然なくなったわけです。その時は力が抜けてとても虚無的になりました。私、古風な女の一面も根強くありまして、人のために尽くすことはいくらでもできる性質なんです。ですから、重い荷物がなくなったからといって、少しも解放されませんでした。むしろ平衡感覚が崩れ、精神的にまいってしまいました。それで3年間ほど、エジプトをはじめヨーロッパ、アメリカ、メキシコと放浪いたしました」

——絵の勉強のために。

「いいえ。ただ絵を学びに行ったわけではありません。天才の絵を見ても、私なんか見て見ぬふりをするしか仕方がないでしょ(笑)。それより、私の背後から襲いかかるお化けのような巨大な存在、つまり“西洋”を知りたかったから。その西洋自体を、西洋の暮らし、人、芸術を我が身で知りたかったんです。日本のように紙と木の家ではなく、石の家に何千年と住んできたのですから、根本的に違うわけ。そこを知りたかったんです。

西洋文化の強烈さに打ちのめされながら考えました。文化は風土の中から生まれるのだというのを実感し、私の原点は日本の風土だと気付いたんです。それで日本に帰ってからの暮らしを決めました」

——何歳になられていましたか。

「帰国したのが、46歳。50歳は折り返し点ですから、もう迷ったり我慢したりして、おろおろしているのは許されません。3年の放浪で強烈に感じたのは、ものを作る者は都市に住んではいけないということ。暮らしから、絵は生まれるの。ですから、私は自然のなかで暮らさなければと、固く決心をして帰ってきました。それで、自分がいちばん落ち着ける森林のなかの家を探しました。それが、ここ大磯の家です。

ところが、親や姉妹は根っからの東京者で、都心を離れたがらない。神奈川の大磯なんていう田舎は嫌だと猛反対。でも、私も50歳を前にして、もう人のために生きたくはないと断固譲らずに越してきました。家の裏手はカシ、シイ、クスノキの大木が茂る原生林です。もとは徳川家の所領で、明治に皇室のものになった御料林ですから残ったのでしょうね。原生林の裾野に、ひっそり埋もれて暮らす。そんな念願の理想の生活を、49歳から始めました。おまけに海が近いですからね。山と海。このふたつから、とても新鮮な感動を与えてもらいました」

大磯の自宅隣に、樹齢400年といわれるホルトの木が大海のように枝を広げている。伐採直前だったところを、堀さんが私財をなげうって土地ごと購入。

大磯の自宅隣に、樹齢400年といわれるホルトの木が大海のように枝を広げている。伐採直前だったところを、堀さんが私財をなげうって土地ごと購入。

——それ以来、大磯暮らしですか。

「それがね、一か所に長く留まって安定すると、新鮮な感動や驚き、不安といった心の揺れがなくなってしまうんです。神経が錆び、感性が鈍ってしまう。私の絵の描き方は、“自分の心を刻む”とでもいえばいいでしょうか。そんなですから、私の根性がだらしなくなるのを、別な私が許さないわけです。それで、慣れた生活からの脱出をはかって、61歳のとき軽井沢にアトリエを持ちました。今も、大磯と軽井沢を行ったり来たりしています」

「お元気ですね、なにか秘訣は?なんて、無礼な質問ですよ。今でも私は、子供のときの続き」

——環境が及ぼす影響は大きいのですね。

「そうです。旅に出るのも、かつて見たこともないような状況に我が身を置くことができるから。新鮮な刺激で自分の中の、まだ開発されていないものが芽を出すかもしれない。そんなふうに思っての旅立ちなんです。私のなかには、まだ芽を出していない種があるかもしれない。これは、年齢でははかれないものですね。ですから、旅はいつもひとり。“行ってから驚く”体験主義者なので、事前にあれこれ調べることもしないし、ガイドブックも持ちません。

70歳になって、浮き足だったバブル経済の日本に嫌気がさし、イタリアのトスカーナへ向かったときも、ひとりでした。あのときはね、自分が70歳だという“自覚”なんかなくて(笑)、言葉もできないまま、5年も暮らしてしまいました。ひとり暮らしですから、朝起きるのも自由、食事時間も自由、本当に快適でした。誰かにお世話になりますと、どうしても気を遣います。それよりも、私は自分のやりたいこと、自分の方針を優先させたいんです」

大磯のアトリエで、およそ40年前の自作「マヤ」に手を入れる堀さん。「侵略されたマヤの人たちを描きたかった。侵略した側に怒りを覚えながら描いていました」

大磯のアトリエで、およそ40年前の自作「マヤ」に手を入れる堀さん。「侵略されたマヤの人たちを描きたかった。侵略した側に怒りを覚えながら描いていました」

——ヒマラヤにまで出かけられましたね。

「81歳のときでした。ブルーポピー(青い芥子)を求めて。標高4000mから5000mのヒマラヤ山脈の岩場に、ひっそりと咲く幻の花なんです。どうしても見たいと思って、ヒマラヤへの旅を決心しました。あのときばかりは、家の周りを歩いて体調を整えましたよ。ヒマラヤの中腹までヘリコプターで入り、あとは自分の足を頼りに探し歩くしか手立てはありませんから。岩場で足を踏み外しそうになったり、ボンベで酸素吸入をしたり……。息が苦しくてふらふらになり、もうこれ以上登れないと観念したそのとき、ブルーポピーが突如、現れたんですよ。標高約4500mの岩陰に、草丈20cmほどの可憐な花が静かに揺れていて、それはそれは感動しました」

81歳でヒマラヤ登山をしたとき、シェルパに馬の手綱を引かれて。標高4500mの岩陰で、念願のブルーポピー(青い芥子)を見つけた。撮影/岩間幸司

81歳でヒマラヤ登山をしたとき、シェルパに馬の手綱を引かれて。標高4500mの岩陰で、念願のブルーポピー(青い芥子)を見つけた。撮影/岩間幸司

——その感動を、絵に定着なさる。

「すぐには形にできないものなんです。あのすごい体験をどう表現するか。重い心を絵にするには時間がかかりました。同時に、私のなかの“軸”が変わってくるのを実感できました。日常生活の惰性や文明の利器による便利さに慣れきってしまい、鈍くなっていた感性が刺激を受けたのでしょう。それまで、人間はほとんど描かなかったのに、ヒマラヤで出会った純真な子供たちの輝く瞳に触発され、その姿を描くようにもなりました。厳しい大自然のなかで力強く生きている人間に、自然の木、花と同質の美しさを感じたんです。旅は、自分を改造するひとつの方法。流れる水は腐りませんから」

『ブルーポピー』2001年 この花を見るために、ヒマラヤまで出かけた。本誌でも紹介したが、この青い芥子の絵は昨年の個展で、大きな話題となった。(C)一般社団法人堀文子記念館

『ブルーポピー』2001年 この花を見るために、ヒマラヤまで出かけた。本誌でも紹介したが、この青い芥子の絵は昨年の個展で、大きな話題となった。(C)一般社団法人堀文子記念館

——齢を重ねる楽しさとは?

「う〜ん、みなさん年齢に拘りすぎですね。84歳なのにお元気ですね、なにか秘訣は? なんて無礼だと思います(笑)。子供のときの続き。私にはそんな感じしかないですね。そして死ぬまで生きているわけですから。小さいときから好き嫌いがはっきりしていましたけれど、我慢して言わないできました。それが、もう近々死ぬんだから口に出して言おう、という感じになってきましたね(笑)。さまざまな呪縛が解けて、若い頃よりずっと自由になってきています。その意味で、ますます本気になってきました。身体が弱ってきたぶん、魂のようなものがストレートに現れてきたみたい。本質的な自分のエネルギーが、朽ちる直前に、姿を現したがっているような気がします。今、歳を取って、実感しております。生き生きしてきたなぁって」

自宅近くの大磯の海辺を散歩する。移り住んだ35年前は、“海”に感動して、絵を描きに描いた。今も、題材になる草草を探して周囲を歩く。

自宅近くの大磯の海辺を散歩する。移り住んだ35年前は、“海”に感動して、絵を描きに描いた。今も、題材になる草草を探して周囲を歩く。

堀 文子(ほり・ふみこ)大正7年、東京市麹町区生まれ。女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科日本画部卒業。昭和14年に新美術人協会第2回展に初入選。以後、入選を重ねる。昭和27年、第2回上村松園賞受賞。28歳で外交官と結婚し、42歳で死別。直後に3年間、世界を旅して歩く。49歳で都心から神奈川県大磯に移り住む。昭和62年から5年間、イタリアに住み、以後、アマゾン、メキシコ、マヤ、ヒマラヤと精力的に旅を続ける。

この記事は『サライ』本誌2002年9月5日号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです(取材・文/塙ちと 撮影/高橋昇)。

堀文子さんのご冥福をお祈りします(編集部)

『ひまわりは枯れてこそ実を結ぶ』
(堀 文子著、小学館刊)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09388587

堀文子さんがこれまでに考えたこと、感じたこと──100を超える珠玉の言葉を集めた名言集。ここには、99歳の時の堀さんが伝えたい思いが込められている。

《この世の不思議を知りたいということが、私に絵を描かせている》

《どこまで行きつくのか。自身の終りの風景に興味しんしんである》

《人の一生は毎日が初体験で、喜びも嘆きも時の流れに消え、同じ日は戻らず、同じ自分も居ない》

本書に記された堀さんの言葉は“いま”を精一杯に生きることの大切さを教えてくれる。

本書『ひまわりは枯れてこそ実を結ぶ』の詳細については以下のページをご覧ください。
https://www.shogakukan.co.jp/books/09388587


 

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