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サライ世代の範とすべき人生の先達の談話を毎号お届けしている『サライ』本誌連載「サライ・インタビュー」。桂歌丸さんの訃報に接し、201010月号に本誌掲載されたインタビューを掲載いたします。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/齋藤亮一)

――生家が横浜の色街とお聞きしました。

「今も住んでいる真金町(まがねちょう、神奈川県横浜市)は昔の色街で、うちは『富士楼』という名の女郎屋だったんです。父親とは3歳で死別しましたので、女手ひとつで女郎屋を切り盛りしていた祖母に育てられました。小さい頃は母も一緒でしたが、やがて再婚して、戦後は離れて暮らすようになりましたのでね。店は間口が7~8間(13~14m)。お客さんは店に並んだ女の子を見立てて2階へ上がる。店の奥の帳場が祖母の定位置で、でんと腰を下ろして、にらみをきかせていました。多いときには12~13人の女の子がいました。色街は昼間は静かなもので、子供は道の真ん中で遊ぶ。でも、暗くなると外に出ちゃいけない。子供がうろうろしてたんじゃ、お客さんも興ざめですから」(笑)

――(くるわ)事情を内側からご存知なのですね。

「ですから、廓噺を演るときは、自分の育った家のことをマクラにおしゃべりします。その点は強みといえば強みですね。

家の商売に関していえば、夜10時頃には泊まりのお客さんに備えて、女の子たちはお蕎麦とかお茶漬けとか、軽い食事を摂ります。これを“ひけ飯”といっていた。私もご相伴にあずかったのですが、それが癖になっちゃって。今も夜の10時頃になると小腹が空いて、何か食べないと落ち着きません(笑)。

街には朝晩は鮨売りが来ていました。朝はさっぱりしたコハダの鮨、夜は稲荷鮨。これは色街特有のことだったんでしょうか。考えたら、子供時分から食べ物には恵まれていて、ひもじい思いをしたことはありません」

――食糧難の時代も充分食べられましたか。

「ええ、昭和20年5月の横浜大空襲で真金町の一帯も焼け野原になりましたが、色街は復興も早い。バラック小屋を建てて、さっさと商売を始めちゃった。当時のお客は船員とか闇成金で、米・砂糖・缶詰などの品物を持ってくる。そのストックが戸棚いっぱいにあって、世間は食糧難なのに、私だけが銀シャリの詰まったお弁当を小学校に持っていけた。それが逆に恥ずかしくて。だって、担任の先生が“おまえのところはいいなあ”とうらやましがるんですから」(笑)

――噺家になられたのはなぜですか。

「戦後、ラジオの寄席番組が好きでよく聞いていて、自分も人を笑わせる、こういう商売がいいなあって、子供心に思ったんです。勉強は嫌いでも、落語ならラジオで1回聞くだけで、すっと憶えられたし、学校で一席うかがうと、これがまた大ウケだったんですよ。

祖母は私に女郎屋を継がせようなんて気は端からなかったんですが、“噺家になる”と言ったときはショックだったようです。芸人というのは道楽者のごくつぶしだと思ってたんでしょう。でも、私の意志が固いとわかると、自ら伝手(つて)をたどって師匠を探してくれました。その縁で入門したのが“おばあさん落語”で人気の五代目古今亭今輔(いますけ)師匠です」

――弟子に優しい師匠だったようですね。

「昭和26年11月。私は中学3年生の秋から通いの弟子にしていただきましたが、いきなり稽古をつけてくれたんですよ。それも、大概の師匠なら“噺三度”といって、ひとつの噺を三遍聞いたら憶えなさいという教え方をします。まだ録音の道具などない時代ですから、聞き覚えたところをメモするなどして、噺を頭に叩き込む。ところが、今輔師匠は何度でも丁寧に教えてくださるし、出来栄えを聞いて助言もしてくださる。高座の決まり事から、着物の畳み方まで直々にお教えいただきました。何よりも、今輔師匠は弟子の名を“さん”づけで呼ぶ方だったんですよ。呼び捨てにはしないんです。しかも、家の掃除などの雑用を弟子にはさせない。“掃除をしにきたんじゃないだろ、噺を習いにきたんだろう”とおっしゃる、そういう師匠ですから、辛く厳しい新弟子時代というのはまったくなし。

ところが、そんな優しい師匠のもとを、私は飛び出してしまったんですからねえ」

――何があったのですか。

「二ツ目になって4年くらい経った頃でしたかね。われわれ若手はほとんど高座に上がる機会に恵まれない。出られても二流、三流の端席で、何よりも“予備”をやらされるのが辛かった。高座に穴があいた場合に備えて、楽屋で控えているんです。でも、そうそう穴はあかない。高座に出られないから、不満もたまってきます。そこで同じ境遇の二ツ目5~6人が集まって、寄席に出られるよう協会に要求を出そう、受け入れられないときは外へ飛び出そうという話になったんです。ところが、いざとなったら、言い出しっぺまでが寝返っちゃって。結局、私ひとりが反旗を翻した悪者になっていた。そのために、昭和33年から2年半ほど、落語界を離れて浪人暮らしをするハメになったんですよ」

――今輔師匠から破門されたのですか。

「いいえ、破門を言い渡されたわけではありません。親の心、子知らずというやつで、へんに意地を張って、自分から師匠のもとを飛び出して、寄席からも遠ざかってしまったんです。もう子供もいたのに、食うあてはなし。浪人時代は、カミさんと一緒に化粧品のセールスをしたり、メッキ工場で働いてみたり。いろんなことをやりました。

結局、兄弟子の桂米丸(よねまる)師匠に付き添っていただいて、今輔師匠のおたくにお詫びにうかがって寄席に復帰できたんです。ただし、“いっぺん飛び出した者を入れるわけにはいかないから、米丸さんのところにいきなさい”と、そう言われました。つまり、兄弟子と師弟関係を結ぶことになったのですが、そこが今輔師匠の優しい配慮なんですよ。自分の弟子にもどるのでは引け目もあって居心地が悪かろう、兄弟子のもとであれば自分の目も届くということですよ。実際、今輔師匠からは従前と変わらず面倒をみていただいたし、私も心機一転で懸命に精進につとめました」

――古典落語に力を入れ始めたのは。

「そもそも今輔一門は新作が中心ですが、ひとりくらい古典派が交じっていてもいいじゃないかという思いが私にはありまして。二ツ目の頃から少しずつやり始めてはいたんですが、40歳を境に古典落語へと舵を切りました。昭和49年から、地元横浜の三吉(みよし)演芸場で毎年6回の独演会を始めたわけですが、その初回から古典に取り組みだしたんです。

私は噺をひとつ憶えると、まず横浜・三吉演芸場の自分の会でいっぺん演じてみます。壁に向かっていくら稽古を積んでみても、実戦とは違いますから。お客さんを前に勝負をして初めて、その噺がものになるかならないかがわかる。自分ではいけると思う噺でも、お客さんを前に演ってみて、これはダメだとわかって、捨てた噺もずいぶんあります。

どんなに好きな噺でも、自分の任に合わない噺もありますね。例えば相撲取りの噺。この通り痩せてますから、相撲取りには見えない(笑)。その代わり、怪談噺には向いています。顔や体形もそうですが、私は顔に汗をかかない体質なんです。幽霊が汗っかきだったら、怖くもなんともないでしょ」(笑)

――歌丸師匠といえば『笑点』ですが。

「番組が日本テレビでスタートしたのが昭和41年。三浦綾子さんの『氷点』という小説がドラマ化されて評判だったので、それをもじった番組名らしいですよ。以来、もう45年ですから、呆れかえっちゃいますよね。回答者もどんどん入れ替わって、最初からのメンバーは私ひとりだけ。司会も初代の立川談志さんから、前田武彦さん、三波伸介さん、そして三遊亭円楽さんの後を受けて、平成18年から私が5代目の司会をつとめています。

私の真打昇進は昭和43年ですが、これは『笑点』人気のおかげといってもいいですね。当時の真打昇進は、今のような年功序列ではなくて、噺がうまくて面白いか、人気があってお客さんを寄席に呼べるか、そのへんを席亭が判断して決めていましたから。」

――いまの時代に何か物申したいことは。

「いっぱいあります。この間、同じ飛行機に乗り合わせた、ある政治家からいきなりこう言われたんです。“テレビで政治家の悪口を言うなよ”。即座に言い返してやりました。“悪口を言われるような政治家になるなよ”って(笑)。無駄をカットする仕分け人が話題になりましたけど、何の役にも立っていない政治家こそ無駄の最たるもので、その仕分けをやらせてほしいですよ。もっとも、私自身は政治家になる気はさらさらなくて、それこそ『笑点』あたりで毒を吐いているのがいい。

ただ、『笑点』も回答者のときは、自由に悪口も言えたんですが、司会者はそれができない。毒を吐いても放映のときにカットされちゃう。その点が少し欲求不満です」(笑)

――座右の銘は何でしょうか。

「〈褒める人間は敵と思え、注意してくれる人は味方と思え〉。今輔師匠に教わった言葉ですが、人は褒められると嬉しくなって、そこで成長が止まってしまいます。褒めることは根っこを断ち切ることと同じ。一方、注意をしてくれる人は根に水や肥料を与えてくれる人です。これは後進にもよく言うんです。

それから〈長生きも芸のうち〉。八代目桂文楽(ぶんらく)師匠がそうおっしゃっていたのですが、私は毎年7月半ばには人間ドックに入ります。これを30歳のときから40年以上続けています。胆嚢の機能障害や腸の潰瘍で手術も受けましたが、いずれも早期発見ができたので大事にいたらずに済みました。〈長生きも芸のうち〉、ホントにその通りだと思います」

この記事は『サライ』本誌201010月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです(取材・文/佐藤俊一 撮影/齋藤亮一)。桂歌丸さんのご冥福をお祈りします(編集部)

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歌丸師匠が波瀾に満ちた人生と話芸を語る一代記
『座布団一枚!桂歌丸のわが落語人生』
桂歌丸著、小学館
https://www.shogakukan.co.jp/books/09388138

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