取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工

【サライ・インタビュー】

ホキ徳田さん
(ほき・とくだ、ジャズピアニスト)

――日本の芸能界とアメリカのショー・ビジネス界で活躍

「気ままに、ひとりで、好きなように暮らし、今日が最後だと思って生きています」

ホキ徳田1

自宅の居間には、時代を華やかに彩った日米のスターや著名人たちとの貴重な写真が残されていて、ホキさんの幅広い交流を物語る。

※この記事は『サライ』本誌2018年12月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

──素晴らしいピアノの演奏と歌でした。

「毎晩8時頃から、ここ『北回帰線』(東京都港区六本木2-3-9 ユニオン六本木ビル1階 電話:03・6277・7227 営業時間:20時~24時 定休日:日曜、祝日)でピアノの弾き語りをしています。スタンダードなジャズのほか、日本の歌謡曲も歌います。大きなホールでのコンサートもやりますが、あまり好きじゃないんです。やっぱりお客さんと触れ合える自分の店で、ピアノを弾きながら歌うのが一番好きなんですよ。

店名は、私の夫だったアメリカの作家ヘンリー・ミラーの代表作からとりました。没後30年にあたる平成22年、ヘンリー・ミラーを記憶する場所としてオープンしました」

──文豪の夫人だったんですね。

「ヘンリーにとって私は8番目の妻で、最後の妻でした。もっとも、ヘンリーの7回目の結婚は重婚だったから認められず、正しくいえば、私は7番目の妻で、最後の妻です(笑)。

出会いは昭和40年。私が日本の芸能界を飛び出してアメリカへ渡り、ハリウッドにあった日本料理店『インペリアル・ガーデン』でピアノの弾き語りをしていたときです。映画関係者のパーティで知り合ったのをきっかけに、ヘンリーは毎晩のように店へやって来てはラブレターをくれました。“ホキのことをどんどん好きになっている”って。でも、私は28 歳。ヘンリーは46歳も年上のお爺ちゃんでしたから、最初は逃げ回っていたんです」

──何が、結婚の決め手になったのですか。

「結婚すればアメリカの永住権がもらえるし、ヘンリーが“ホキが嫌なことはしなくていい”って言うんです。料理人のほかに、家事をやる人がヘンリーの家にはいましたからね。私は一緒にドライブをしたり、パーティを楽しんだりするだけでよかった(笑)。

“子供を産め”と言われる心配もなかったんですが、ひとつだけ、不思議なことがありました。ヘンリーから誕生日を聞かれたので“11月14日よ”って答えたら“嘘だろ!?”ってひどく驚いたんです。それは、ヘンリーの自伝的な小説『北回帰線』の最初のほうに“11月14日は何をしていたんだろう”というような記述があるからです。私が生まれたのは、彼がそう書いた11月14日だった。ヘンリーは私の父から出生証明を取り寄せて確かめたほどです。その不思議な符合に因縁を感じたことも確かです」

──夫としてはどういう人でしたか。

「ヘンリーは、小説では性愛の世界を直截な言葉を連ねて書いてますが、それは彼の想像力の産物。実際は純愛に憧れる、すごく面白い人でした。一緒にいると、本当に楽しかった。年齢は大きく離れているし、時代感覚も、受けた教育もまったく違うのに、なぜか一緒にいると楽しかった。好奇心の強さと、好き嫌いがはっきりしている点も共通していました。映画を観ていると、ふたりで同じところで笑ったりしたんです」

ホキ徳田2

昭和42年、文豪ヘンリー・ミラーと結婚。ショー・ビジネスの世界に魅せられ渡米した2年後だ。“ホキ”の名はカナダ留学時代からの愛称で本名は浩子 。

──ピアノはいつから始めたのですか。

「3歳からです。戦前にカナダの音楽学校へ留学し、声楽家になる夢をもっていた母の恣意でピアノと絶対音感の訓練を受けました。戦争中も疎開先の八王子(東京都)へピアノを運び、ずっと弾き続けていました。

父は国際連盟の日本支部長で、戦争中は中野拘置所(東京)に収監されていました。平和の使徒として“戦争はやめましょう”という立場でしたから、“暴漢から保護します”なんて言われて連れていかれたそうです。

父と母は戦争中でも英語で話をしていました。今思えば“今日も可愛いよ”とか、他愛もない言葉を交わしていただけだと思うんですけど、田舎の人にはスパイと思われても仕様がなかったんでしょうね。私も“スパイ、スパイ!”って、梅の実をぶつけられました」

──ご自身もカナダへ留学されたのですね。

「昭和30年、母も留学していたカナダのオンタリオ州セント・トーマス市にある『アルマ・カレッジ』に奨学生として招かれました。焼け跡の掘立小屋を離れ、古城のような学校での2年間は素晴らしかった。ところが、帰国直前に母が47歳で急死。ショックで、一時はピアノに触れることもできなくなりました」

──芸能界へデビューされたきっかけは。

「戦後はNHKで解説委員をしていた父が、母の死で傷心の私に“テレビに出てみるか”と言ってくれたんです。留学していたカナダは、日本よりもテレビ放送が始まったのが早くて、アメリカで大人気だった『エド・サリバン・ショー』なんかを観ていたこともあり“面白いかな”って思ったんです。

最初にテレビへ出たのは昭和33年、NHKやKRテレビ(現TBS)のドラマです。生放送ですから、面白い失敗もたくさんありました。“スリー・バブルス”という女性3人組のコーラスグループを結成してからは、フジテレビの『ザ・ヒットパレード』など音楽バラエティ番組にずいぶん出演しました。永ちゃん(永六輔)やチャック(黒柳徹子)たちは、その頃からの仕事仲間です」

──なぜ、アメリカに行かれたのですか。

「ソロ歌手としてアメリカへ行く仕事がきて、ハワイで1年、ロサンゼルスで1年、ステージに立ったんです。帰国後はまた日本の芸能界に復帰して、レコードを吹き込んだり、映画に出たりしましたが、どうしてもまたアメリカに行きたくて。『ベッドで煙草を吸わないで』という曲の吹き込みを終えた直後、レコード会社の人に“すぐ帰ってきます”って言って15年間帰らなかった。だって、ヘンリーに掴まってしまったから」(笑)

「ヘンリー・ミラーとの結婚当初は、竜宮城に迷い込んだような毎日でした」

ホキ徳田3

ホキさんは日本の元祖“弾き語り”といわれるピアニスト。絶対音感をもつ彼女が奏でるピアノの調べと、その美声は今も健在だ。

──映画に主演もされたのですね。

「松竹映画の『にっぽんぱらだいす』(昭和39年)や『サラリーマンの勲章』(昭和40年)とか、主演級の映画を4本撮ったんですけどね。自分では観る暇もなく、アメリカに行ってしまったんですよ。『ベッドで煙草を吸わないで』は、沢たまきさんで録り直してヒットしたそうですね。私より沢たまきさんのほうが、ずっと色気があってよかったんじゃないかしら」(笑)

──何でもあっさり手放すんですね。

「あまり、出世欲がないんでしょうかね。でも、あのときアメリカへ行って本当によかった。1970年代のアメリカは、ショー・ビジネス華やかなりし時代。そのショーが観たくて、毎週のようにラスベガスへ出かけました。フランク・シナトラは小柄でしたが、とてもセクシーですぐに仲良くなりました。トム・ジョーンズは滑り出るように派手にステージに登場し、エルビス・プレスリーは出てきただけで喝采がすごかった。背が高くて、緑色の眼をした、すごくきれいな人でしたね」

ホキ徳田4

食事はいつも行きつけの割烹『うちわ』(東京都港区麻布台1-5-6 パレス麻布1階 電話:03・3582・4711)で、女将の中村和子さん(左)と会話を楽しみながら摂る習い。この日は玉子焼きとステーキを肴にゆっくり日本酒を嗜む。

──夢のような時代ですね。

「でも、思い返せば私の人生のハイライトは何といってもヘンリー・ミラーとの結婚です。寝坊と夜更かし、長い旅行とパーティ三昧、映画に演奏会に展覧会と、ショー・ビジネス全盛のアメリカで、ヘンリーと過ごしたエキサイティングで面白可笑しい日々は、それこそ竜宮城へでも迷い込んだようでした。

ただ、“結婚は財産目当て”とか、マスコミにはずいぶんひどいことも書かれました。でも、実はヘンリーはあまりおカネを持っていなかった。最後の著作が出てから40年くらい経ってましたから、決まった収入がないんです。私はピアノの弾き語りでものすごい高給を取ってましたから」

──ヘンリーはどうしていたのですか。

「それが、ヘンリーは画を描いては、それをおカネの代わりだと言って買い物をさせるんです。紙を買ってこいとかね。ヘンリーの画って、たまらなく下手なんです(笑)。でも、可愛いっていうか、メルヘンチックっていうか、幼い子供の画みたいなんですよ。そんな画を毎日描いては、窓拭きのおじさんにも渡していました。その頃の窓拭きは1週間17ドルで、日本円にしたら3000円くらい。払ってあげればいいのにと思うけど、ヘンリーは画のほうが喜ぶと思っているのね。おじさんは“できたらおカネで欲しい”と、私に言うわけです(笑)。なので、ヘンリーが亡くなったあと、画を買ってあげました。もちろん、17ドルよりずっと高い値段で」

──ヘンリー・ミラーとは離婚しました。

「ヘンリーとの結婚生活は12年続き、一緒に暮らしたのは最初の3年。その後は別居しましたが同じロサンゼルスですぐ近くに住んでいました。財産は一銭も、もらっていません。 それまで私が受け取っていた300通のラブレターが慰謝料代わりとなりました」

──どういうことでしょうか。

「彼は、書いたままで私にまだ渡していなかったラブレターをまとめて送ってくれると“これを売っておカネに換えなさい”と言うんです。それも、どうやって売ればいいのかという文面まで書いてくれた。

その指示に従って、ヘンリー・ミラーのファンに、私へのラブレターをすべて売りました。コピーは残してありますけどね。つまり、あの人は自分が書いた手紙や恋文はすべて世に出ることを知って書いていたんです。あるときは私への執着心を、あるときは女々しいほどに言葉を連ねて。ヘンリーにとって、手紙は小説を書くのと同じく彼の作品なんです」

ホキ徳田5

東京・六本木のバー『北回帰線』は、ホキさんのアメリカ時代の華やかな軌跡と夫ヘンリーとの思い出が凝縮された空間だ。

「健康法なんて何もやっていません。なるべく自然体で楽に生きたい」

──ホキさんの元気の秘密は何でしょう。

「気ままに、ひとりで、好きなように暮らしているのがいいんじゃないかしら。来るものは受け入れ、去るものは追いかけません。なるべく自然体で、楽に生きたいんです。

私はもともと丈夫なのか、病気らしいものをしたことがない。一度だけ、71歳のときにマイコプラズマ肺炎というのに罹りました。そのときは不思議そうな顔をしたお医者さんがいっぱい集まってきて、聞けば“この病気は5歳までに罹るものです”って。71歳で罹るのが珍しくて集まってきたんです」(笑)

──何か心がけている健康法はありますか。

「世に言われる健康法なんて、何もやっていません。住んでいるマンションから店までは歩いて通える距離ですが、いつもタクシー。あえて歩くことはしないし、体操もしません。

ただ、ピアノを弾いて歌うということは全身を使いますからね、それだけで毎日、結構な運動になっているとは思います」

──食事はどうされてますか。

「基本的に外食です。何を食べなきゃいけないとか、何時に食べなきゃいけないとか、そういうこだわりは一切なく、自然任せ。お腹が空いたら食事をします。そこが、人とは違うところかもしれませんし、だから、元気なんじゃないかとも思います」

──お酒は飲みますか。

「飲まない日はありません(笑)。ただし、がぶ飲みはしません。ふた口くらい飲んだら、必ず同量の水を飲む。若い頃は酔っぱらうまで飲み、口に指を突っ込んでは吐いて、また飲んだものです(笑)。何十年も飲んでいると、だんだん飲み方も丁寧になりますね。

最近、ひとつだけ決めていることは、午前中の電話には出ない、ということです」

──それはどういう理由からですか。

「この歳になると、朝早い電話は訃報とか、不吉な報せが多いから出たくないんです。

私自身も明日は死んでいるか、生きているかわからないので、今日を一所懸命に生きることをモットーにしています。歳を取った人って、ふいにいなくなるでしょう。そういう例をいっぱい見てきてますからね。今日が最後だと思って生きることにしているんです。

ただ、残された時間がもう少しありそうなので、アメリカに帰ることも考えています。日本にいる限り、私は働かなきゃならない。その点、アメリカならヘンリーの年金だけで生きていけますからね。ひとりで、のんびり暮らすのもいいかなと思うんです」

──ひとりでは寂しくないですか。

「元来、ピアニストというのは孤独なものなんです。ピアノは独りで扱う楽器ですからね。寂しがり屋じゃ務まらない。

あるいは、また誰かに出会って“一緒に住みたい”と言われたら、アメリカ行きの予定は変更してもいいかな。実際、古くからの知り合いの息子さんが“父が『ホキだったら、一緒に住みたい』と言ってます”とわざわざ伝えに来てくれた。

ほんの数年かもしれないけど、それも面白いかな。でも、それから少し時間が経ってしまったので、高齢の方ですし、もう自分が言ったことを忘れてしまってるかもしれませんけどね」(笑)

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「私は日本人なのに正座が苦手。それは母が私を畳には決して座らせなかったからです。でも、同年代の人より脚はかなり長い。これは母のお陰でしょうね」

●ホキ徳田(ほき・とくだ)昭和12年、東京生まれ。桜美林高校卒業後、カナダ「アルマ・カレッジ」に留学。ピアノ、作曲、美術を専攻。帰国後、芸能界にデビュー。歌手・女優として活躍する。昭和40年、弾き語りの仕事で渡米。2年後に作家ヘンリー・ミラーと結婚。昭和53年に離婚。現在は東京・六本木でバー『北回帰線』を経営。著書に『ヘンリー・ミラーの八人目の妻』等。

※この記事は『サライ』本誌2018年12月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

 

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