【サライ・インタビュー】

澤田長二郎さん
(さわだ・ちょうにろう、津軽鉄道代表取締役社長)

――定年退職後、経営難の鉄道会社の社長に就任して14年

「ピンチとチャンスは表裏一体。夢は津軽半島を一周する環状鉄道の実現です」

「お金を失うことは小さく失うこと。信用を失うことは大きく失うこと。やる気を失うことは総てを失うことです。皆の“やる気”が津軽鉄道を支えています」

※この記事は『サライ』本誌2018年10月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

──津軽鉄道は日本最北の私鉄です。

「お客さんを運ぶ鉄道としては、日本最北の私鉄です。10年ほど前までは、北海道に北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線(池田駅〜北見駅)があったんですが、平成18年に廃止となりました。青森県内にも、下北半島を横断する下北交通大畑線(下北駅〜大畑駅)がありましたが平成13年に廃止となり、日本最北の私鉄として踏ん張っています」

──四季折々のイベント列車が人気です。

「津軽鉄道は、津軽五所川原駅から津軽中里駅まで12駅、20.7kmを走行する一般には無名に近いローカル線です。ただ、12月から翌年3月にかけて、ダルマストーブを設置した客車で運行するストーブ列車は、津軽の冬の風物詩として全国的な知名度があります。近年は、地吹雪の厳冬期を好んで訪れる外国からの観光客も増えてきて、皆さん、降り積もった雪の中へダイビングするように飛び込んで愉しまれてますよ」(笑)

──この夏のビール列車も満席でした。

「飲み放題のビール列車は夏に2日間だけの運行ですが、好評で、もっと回数を増やしてほしいと言われます。他にも、車内にいくつも吊るした風鈴に俳句の短冊を結んだ風鈴列車(7月〜8月)や、鈴虫の籠を設置した鈴虫列車(9月〜10月中旬)も津軽鉄道の名物列車です。途中の金木駅から歩いてゆける距離に、作家・太宰治の生家“斜陽館”があることでも知られています。太宰に因み“走れメロス”というヘッドマークを付けたディーゼルカーは鉄道ファンに人気があるんですよ」

津軽鉄道の夏の恒例イベント「ビール列車」で乾杯の音頭をとる。今年も各地からの予約客で満席だった。窓の外は津軽平野の夕景だ。

津軽五所川原駅の機関区で。太宰治の名著に因んだ「走れメロス」号と澤田さん。地域に愛される鉄道であり続けるため日々、奮闘中だ。

──津軽鉄道は昭和初期の開通ですね。

「昭和3年に設立され、昭和5年7月に津軽五所川原駅〜金木駅間で営業開始。同じ年の11月に津軽中里駅までの全線が開通しました。

五所川原は古くから産物の集散地として栄えてきたところで、呉服など商業の中心地としても賑わっていました。しかし、五所川原より北は開発が遅れていて夏は馬車、冬は馬橇が交通手段でした。そこで津軽半島北部の開発と地域振興を目的に鉄道が作られたのです。それも、当初は津軽半島を一周する“環状鉄道”という大構想がありました」

──環状鉄道は実現しなかったのですか。

「昭和4年に世界的な金融恐慌が始まり、昭和6年には東北に大農業飢饉が起こります。満州事変も勃発し、日本が戦争へと向かってゆく経済的に極めて厳しい時代になりましたので、津軽中里駅から先の鉄道の敷設は資金的に無理だったようです」

──お祖父さんが初代社長だそうですが。

「初代の平山為之助は、母方の祖父にあたります。でも、私は長い商社マン生活を定年で終え、故郷の五所川原へ帰ってきて津軽鉄道の社長を頼まれて引き受けるまで認識していなかったのですよ。赤字続きだということも含め、社長になってからわかったことなんです(笑)。子供時分の私には、祖父の仕事は関心外のことでしたからね」

──商社マンだったのですか。

「高校時代の恩師の影響です。高橋英三先生というんですが、卒業後の進路に迷うと“君は東京へ行って一橋大学の商学部に入りなさい”。就職のときも“商社にしなさい。三菱商事が三井物産より君に合っている”と決めてくれましてね(笑)。先生は京都の出身で、商社の高島屋飯田(現・丸紅)に勤めていたそうです。なぜ、五所川原にいらしたのかは聞けずじまいでしたが、先生との出会いが私の人生のほとんどすべてといえるほどです。

五所川原高校時代の澤田さん。商社マンとして世界を舞台に活躍する日々から、故郷のローカル鉄道社長に。赤字から廃線の危機にあった津軽鉄道の存続に第二の人生を賭けた。

三菱商事に入ってからは主にタイやオーストラリアに駐在しました。まだ日本も外貨不足で自由貿易ができず、輸入をするにも外貨割当制度があり、海外出張も持ち出しが1日に何ドルと決められていた時代でした」

──定年後、なぜ故郷へ戻ったのですか。

「定年後の人生をどうするか。海外で暮らすとか、選択肢はいくつかあったんですが、母はこっちにいましたし“五所川原に帰りたいんでしょ”という家内の言葉に背を押されましてね。家内は鹿児島育ちなのに、こんな雪国によく付いてきてくれた。それには感謝しつつ、五所川原に帰ると決めた以上は故郷のお役に立ちたいと思ったんです」

──そこに経営危機の津軽鉄道があった。

「津軽鉄道の職員は今でこそ30人ですが、最盛期には200人もいて、野球チームまであったそうです。乗客のピークは昭和49年度の年間256万6000人(現在は約27万人)。それ以降は車社会への移行と沿線の少子高齢化で乗客数は年々減り続け、私が社長を引き継いだ平成16年には6700万円の累積赤字も抱えていた。社長になって財務状況を精査するうち“これは大変な仕事を引き受けてしまったな”というのが正直な気持ちでした」

「相手の懐に飛び込み、肚をわって話し合えば必ずわかりあえます」

──なぜ火中の栗を拾うようなことを。

「その頃の津軽鉄道は廃線の瀬戸際で“鉄道の素人が、よく社長を引き受けたものだ”と言われました。でも、津軽鉄道は存在自体に価値があります。乗客の減少により、企業としては赤字でも、歴史的・文化的な資産として、また観光客を誘致できるならば津軽鉄道を存続させる意義があると考えたのです。

差し迫っていた問題は、平成20年末までに“緊急保全整備事業”を義務づけられていたことです。これは“木製の枕木をコンクリート製に変える”ことを主体とする工事です。その工事には約4億円かかります。国・県・市・町にもご負担をいただきましたが、自社負担額が7700万円ありました。慢性的な赤字で、債務超過の津軽鉄道にそんな余力はありません。でも、できなければ廃線もありうる状況でした」

──どうやって乗り切ったのですか。

「資金調達のため、地元の企業や商社時代の仲間など、少しでも可能性のあるところに足を運び、津軽鉄道の存在意義を説いて回りました。恥も外聞も憚らず、実情を偽りなく公開し、窮状を訴えたのです。そうするうちに応援してくださる方が増えてきて、1年後に自社負担分の工事資金に目途がつきました。“相手の懐に飛び込み、肚をわって話し合えば必ずわかりあえる”。それは私の信念みたいなもので、商社マン時代も、その精神で難局を乗り越えてきました」

──商社時代に何か事件があったのですか。

「オーストラリアの鉱山に赴任していたときのことです。採掘現場で先住民のアボリジニ80人が一部の白人の差別発言を引き金にストライキを起こす事件が発生しました。日本人の責任者は私ひとりで、白人の幹部が“危険だ”と止めるのを振り切り、捨て身の覚悟でアボリジニの居住区へ単身出かけ、現場復帰を呼びかけました。その結果、日本人の私が緩衝材になることで、アボリジニと白人の相互理解が深まり、社の結束も強まりました」

──鉄道の幕引きは考えなかったのですか。

「もし、津軽鉄道に関わる人たちの多くが“要らない”と判断すれば幕引きをするしか仕様がないでしょう。でも、まだ必要だというなら、存続の道を探ろうと。そのためには地元の人を巻き込まないと無理だと思いました。故郷に帰ってきて感じたのは、若い人も年配の人も、津軽は女性たちが元気だということ。彼女たちを軸に地元の力を借りれば、津軽鉄道はきっと活性化する。そう、考えました」

──実際、その通りになってゆきます。

「地元の有志を中心に応援してくれる“津軽鉄道サポーターズクラブ”が発足したのが平成18年です。このときは地元の皆さんから、津軽鉄道存続のお墨付きをもらったようで、本当に勇気づけられました。以来、連携を深めながら多様なイベントを開催しています。

列車に津軽観光アテンダントの女性が同乗し、津軽弁で沿線の観光案内や特産品を紹介するサービスを始めたのは平成21 年です。この年は太宰治生誕100年祭もありましたから、ずっと減り続けていた乗客の数が35 年ぶりに前年比で増えました」

この日は津軽飯詰駅で鉄道部品等の展示と農産物等の販売を。ホームには昭和初期の除雪車が停車。子供たちにも津鉄は人気だ。

「悠々自適も結構ですが、周りから必要とされないんじゃつまらない」

──イベント列車はどういう発想から。

「お客さんを少しでも増やすために社内でアイデアを募ったんです。私は出されたアイデアは否定せず、活かすためにダメだとは決して言いません。条件はつけますが、すべて前向きにとらえます。やってみることで“こうやったらいける”とか“どうやってもダメだ”とかいうのがわかりますからね。ビール列車や生演奏で歌う歌声列車といったアイデアも、その積み重ねから出てきたものです。イベント列車は手がかかって何かと大変ですが、職員はみな一所懸命です。まだ温めているイベント列車の企画がいくつもあります。

他にも津軽鉄道の駅や車内で地元の食材や手づくりの料理を販売してくださる地元の女性たちの“津鉄(つてつ)応援直売会”など、様々なグループが連携して支えてくれています。売り子として列車に同乗し、歌って踊って全国区の人気者になったお婆ちゃんもいます」

──思い描いた津軽鉄道になりましたか。

「正直、ずっとピンチといえばピンチなんです(笑)。でも、そこで諦めれば終わりですからね。ピンチとチャンスは表裏一体だと思っています。津軽弁で言うところの“もつけ”の精神です。お調子者とか、向こう見ずとか、普通はやらないことをやるとか、そういう意味合いの方言ですが、津軽では“もつけ”が3人集まれば何でもできる、と言われます。

会社というのは一所懸命にやっていると、道は開けてくるものなんです。どこかでちゃんと見てくれる人がいて、いろいろサポートしてくれるんです。逆に言えば、サポートがあるということは、こっちもそれに応えなければいけないわけですから、それはそれで大変なことではあるんですけどね」

──老後は悠々自適の道もあったわけですが。

「その選択は人によって違うとは思いますが、私は津軽鉄道の社長を引き受けてよかったと思っています。日々忙しく、病気をしている暇もないのが有り難い(笑)。実際、この歳になって、地域のなかでも若い人がいるところに関わるということは、自分の若さを保つ上でもいい。悠々自適も結構ですが、周りから必要とされないんじゃつまらないでしょう。もし引き受けてなかったら、案外、もう死んでいるかもしれない(笑)。家内は“そんなに無理しなくても”と言ってますが“無理をしているわけじゃない。やるべきことをやってるだけだ〟と言ってるんです」

──津軽鉄道は近く開業90周年です。

「昭和5年の全線開通から延べ1億人を超える数のお客さんを運んできて、2020年に開業90周年を迎えます。津軽鉄道は、もともとは津軽半島を一周する環状線として計画された鉄道だと言いましたが、実は私はその構想を今でも諦めていないんですよ。まだ実験段階ですが、線路と道路の両方を走行できるDMV(デュアル・モード・ビークル)という車両が実用化されれば、津軽半島を一周する構想の実現は可能です」

──引退はまだ先ですか。

「いえいえ。私が一歩引いて、若い人が中心になってやってくれるのが理想です。好きなゴルフもしたいから、社長交代の時期は早いほうがいい。身体がまだ動けるうちにね(笑)。

結局、私は人が喜ぶことをしたいんですよね。そう家内に伝えたら“私はまだ喜ばせてもらってない”と言われたので、“君は俺の
分身・同志だと思ってる”って話したんですが、確かに家内孝行はしてないな。時間ができたら、商社マン時代に赴任したタイやオーストラリアへ出かけて、夫婦でゆっくり旅をするくらいはしなくてはいけないですね。

その上で、私が死ぬときも津軽鉄道は健在であってほしい。元気で走っている姿が見られたら、そんな幸せはありません」

機関区で。「良し悪しの判断は慎重に。物事の決定は賢明に。決めたら実行あるのみ」。それが澤田さんの仕事のモットーという。

●澤田長二郎(さわだ・ちょうにろう)昭和15年、青森県生まれ。県立五所川原高校卒業。昭和38年、一橋大学商学部卒業、三菱商事入社。タイ、オーストラリアでの海外駐在等を経て平成6年資材本部長。同9年三菱商事退職。平成8年からエム・シー砿こう産さん社長を務め、平成16年に津軽鉄道代表取締役社長就任。日本民営鉄道協会理事、東北鉄道協会会長、五所川原市教育振興会会長等を兼務。

※この記事は『サライ』本誌2018年10月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

 

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