◎No.29:田中英光の本
文/矢島裕紀彦
東京・駒場の日本近代文学館に蔵される多量の図書の中でも、これは異色中の異色だろう。田中英光愛蔵の新潮社版『太宰治集』上巻(昭和24年発行)。朱の表紙には鉛筆書きの文字で、こう書き付けられていた。
「ぼくは太宰さんの弟子の田中英光という小説書きです。どこにも行き場所がないので死にます」
文面はさらに続き、見返し、扉、目次を経て、裏見返しにまで及ぶ。「到頭再生できなかったぼくをお笑い下さい」「覚悟の死です。どうか、ぼくの死体その他恥かしめないように」という一文も読めた。
英光はこの遺書を残し、東京・三鷹の禅林寺にある太宰治の墓前で自ら命を絶った。36歳の晩秋だった。
英光にとって太宰は生涯の師匠。交流の起こりは、同人誌に掲載されたまだ無名の英光の小説を読んで、太宰が励ましの手紙を書き送ったことに依る。以前より私淑していた人からの便りに、英光の心は雀躍。以降、「不肖の弟子」と自嘲しつつ太宰を師と仰ぎ文学とデカダンの道を疾駆した。ボート選手としてオリンピックに参加した思い出を下敷きにした代表作『オリンポスの果実』。この清冽な青春小説の標題も、師匠の命名だった。
180 センチ、80キロの巨漢。遺骨は一個の壺に納まることを拒み、葬儀の祭壇にはふたつの骨壺が並んだ。これが最後の哀しい自己主張だった。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。『サライ.jp』で「日めくり漱石」「漱石と明治人のことば」を連載した。
写真/高橋昌嗣
1967年桑沢デザイン研究所 グラフィックデザイン科卒業後、フリーカメラマンとなる。雑誌のグラビア、書籍の表紙などエディトリアルを中心に従事する。
※この記事は、雑誌『文藝春秋』の1997年7月号から2001年9月号に連載され、2001年9月に単行本化された『文士の逸品』を基に、出版元の文藝春秋の了解・協力を得て再掲載したものです。