◎No.28:坂口安吾のストップウォッチ
文/矢島裕紀彦
「一生涯(略)走りつづけて、行きつくゴールというものがなく、どこかしらでバッタリ倒れてそれがようやく終わりである」
坂口安吾の生の道筋は、まさに、自らが『青春論』に記したこの一文のようであった。
事物や金銭に縛られるのを嫌い、徹頭徹尾、ひとりの自由人として生き抜こうと意志した。狂おしいほどの希求であった。国税局を相手どった「税金闘争」や、自転車協会を向こうに回して八百長問題を追及した「競輪事件」も、『堕落論』執筆と同根の、反骨の魂の雄叫びであったと思える。
疾駆する自転車のラップタイムでも計測したのか。安吾が競輪に凝りだしたころ買い入れたと覚しきストップウォッチが、観戦用のオペラグラスとともに東京・新宿区の坂口家に保存されていた。印象的な黒赤二色の文字盤。ガラス板右上部に雷の如き亀裂が走る。
競輪事件の最中、鬱(うつ)病も手伝って被害妄想的に身の危険を感じ檀一雄邸に逃げ込んだ折、近所の蕎麦屋に注文した百人前(!)のカレーライスを待つ間にも、このストップウォッチが時を刻んでいたという伝説がある。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。『サライ.jp』で「日めくり漱石」「漱石と明治人のことば」を連載した。
写真/高橋昌嗣
1967年桑沢デザイン研究所 グラフィックデザイン科卒業後、フリーカメラマンとなる。雑誌のグラビア、書籍の表紙などエディトリアルを中心に従事する。
※この記事は、雑誌『文藝春秋』の1997年7月号から2001年9月号に連載され、2001年9月に単行本化された『文士の逸品』を基に、出版元の文藝春秋の了解・協力を得て再掲載したものです。