文・写真/鈴木隆祐
B級グルメは決してA級の下降線にはない。それはそれで独自の価値あるものだ。酸いも甘いも噛み分けたサライ世代にとって馴染み深い、タフにして美味な大衆の味を「実用グルメ」と再定義し、あらゆる方角から扱っていきたい。
■坂口安吾が100人前頼んだ伝説のカレー
西武池袋線に乗り、池袋から急行で一つ目の石神井公園駅の南口近くに、『辰巳軒』という創業78年にもなる古い洋食屋がある。その一軒おいて隣の『ほかり食堂』も同年の開店。この街は、当時から住宅地として栄えていたのだ。
そして、この両店は、文学史に奇妙な事件とともに名を残している。
1951年11月4日、ライスカレー100人前の出前の注文が両店に舞い込んだ。注文の主は坂口三千代。かつて銀座5丁目で文壇バー「クラクラ」を経営していた、作家の坂口安吾夫人である。
電話もまだ行き渡らない時代のこと、夫に言われて直接店を訪ね、そんな無茶な伝言をしたのだ。
当時の安吾は競輪に熱中し、伊東競輪での着順不正を告発。暴力団関係者に目をつけられてしまった。そして、後難を逃れるため、石神井に住む友人の檀一雄邸に2か月ほど身を寄せていた。
睡眠薬の濫用の結果、被害妄想に陥っていたとも言われている安吾。三千代は著書『クラクラ日記』中でこう回想する。「あとから、あとから運ばれて来るライスカレーが縁側にズラリと並んで行くのを眺めていた」
その頃の檀家は、長女のふみはまだ生まれておらず、夫妻と長男の太郎、それにお手伝いという家族構成。そこへ坂口夫妻(と愛犬1匹)、編集者など含めても、居合わせたのは10人足らずだった。それが100人前のカレーとは……。(実際には30人前ほどで打ち止めとなったようだが)
■昭和初期の食堂の味!見事な昔カレー
この「安吾カレー事件」の主役となった「辰巳軒」の歴史的カレー、女将さんによれば、今も当時のままのレシピのはずと言う。ならば頼まないわけにいかない。
運ばれてきたカレーは、見事なまでの昔カレーだった。でろんとしたソースは、ラードで小麦粉を炒めたルーの粉っぽさが奥に感じられる。そして、味がともかく濃厚だ。辛いというより塩っぱさが立っていて、甘味と酸味も同時に襲ってくる。これが皿の半分によそわれるのでなく、給食みたいにライス全面にかかっている。
昭和41年生まれの僕にも、懐かしいを超えた未知の味だ。いわゆる昭和の黄色いカレーと一味も、二味も違う。
ところがこれ、酒の当てにはなかなか恰好。スナック菓子のように少しずつ口中に運び、舌に纏いつく塩気と脂気をビールですすぐ。普段食がもたらす至福とはまさにこの感興を言うのではないか。そこで思い出したのがカレー好きで知られた映画監督、小津安二郎の作品『東京の合唱』だ。
サイレント時代の小津が得意としたサラリーマン物で、老社員の解雇に反対し、自分も馘首される無鉄砲な主人公はどこか漱石の描く坊っちゃんに似ている。が、再就職先などなかなか見つからない。主人公が職安付近を歩いていると、旧制中学時代の恩師が声をかけてきて、最近自分が始めた洋食屋を手伝っては、と持ちかける。
これが、その後も何度となく小津作品に登場する「カロリー軒」の初お目見えとなる。
「カロリー軒」の店の看板には堂々と「一皿満腹主義」の文字が踊る。自慢の品はカレーライス(と字幕にはあるが、壁のメニューにはライスカレーと表記。両者の混同はこの頃からか)。いずれにせよ、ここのカレーも米全体にどっぷりとソースがかかっている。恩師がかき混ぜる鍋の中でも見事にドロッとして、モノクロ映画なのに黄色く輝いて見える。
やがて同店で中学時代の仲間たちが同窓会を開くのだが、その酒宴の主役もカレー。各員ひたすら旨そうにカレーをパクついてはビールを呷っている。
この小津の「カロリー軒」の遺伝子を、僕は辰巳軒のカレーからダイレクトに感じたのだ。
■ビールのアテにも格別!絶品ポテサラ入りハムカツ
しかし、ライスカレーとカツレツくらいしか出さない「カロリー軒」と違い、中華も得意な「辰巳軒」は実にメニュー豊富だ。
辰巳軒のメニューはクラシカルで、この店の長い歴史を証し立てる。「御家庭の延長として 美味と栄養の当店を御利用下さい」との一文が記載され、あくまで家庭の延長たらんとする謙虚さと、内心では味も栄養も家庭料理には負けないとの、そこはかとない自負も感じる。
ことにポテトサラダ入りのハムカツは絶品で、ビールのアテに格別であった。
このハムカツは素朴な旨さだけではなく、カラリ、フワッの食感の軽快さが持ち味。あらかじめカットして提供され、玉ねぎと人参が入った白いポテサラがピンクのハムにまあるく包まれた様が覗くのも官能的。この貴婦人のコートがさながらキツネ色の衣で、片方に醤油、他方にソースをちょろっとかけて熱々のうちにいただく。ハフハフ悶えながら、ビールをまたゴクリ。
安吾がカレー事件の前に食べていたかは不明だが、当時さながらの店構えと味わいがいまだ健在なのは嬉しい限り。安吾や檀の文学が廃れないのと同様、昔カレーもまた次世代に受け継がれていくのである。
【辰巳軒】
■住所: 東京都練馬区石神井町3-17-20
■アクセス:「石神井公園駅」南口より徒歩5分
■営業時間:11:00~22:00
■定休日:木曜日、第3水曜日
文・写真/鈴木隆祐
1966年生まれ。著述家。教育・ビジネスをフィールドに『名門中学 最高の授業』『全国創業者列伝』ほか著書多数。食べ歩きはライフワークで、『東京B級グルメ放浪記』『愛しの街場中華』『東京実用食堂』などの著書がある。
http://www.nihonbungeisha.co.jp/books/pages/ISBN978-4-537-26157-8.html