◎No.26:夏目漱石の旅行ガイドブック
文/矢島裕紀彦
明治・大正期に海外へ出かける日本人留学生の多くが手にした、定番の旅行ガイドブックがある。
通称「ベデカ」。漱石が留学中に活用したのも、この赤い表紙の本。それも、英国全土、ロンドン、フランス北部と、計3冊を用意した(東北大学附属図書館漱石文庫蔵)。頁を繰ってみる。ロンドン塔周辺の記述部分にのみ下線が引かれているのは、現地訪問時だけでなく、帰国後の『倫敦塔』執筆に際しても、この本が参考にされたことを暗示する。
英国留学準備中の後輩から手紙でアドバイスを求められた時も、漱石は、「ベデカーの倫敦案内は是非一部御持参の事」と書き送っている。
ロンドンで暮らした歳月を、漱石は後年「尤(もっと)も不愉快の二年なり」(『文学論』序)と綴った。だが、そこには、病篤い正岡子規からの最後の手紙に即座に返書を送りながら、それをしなかったと見えるような一文(『吾輩ハ猫デアル』中編自序)を草したのと同様の、文筆家ならではの誇張がある。
孤独な勉学の苦渋の陰に、収穫の楽しみも隠された日々。実際、留学期間を延長してフランスで勉強することまで、漱石は本気で願い出ていた。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。『サライ.jp』で「日めくり漱石」「漱石と明治人のことば」を連載した。
写真/高橋昌嗣
1967年桑沢デザイン研究所 グラフィックデザイン科卒業後、フリーカメラマンとなる。雑誌のグラビア、書籍の表紙などエディトリアルを中心に従事する。
※この記事は、雑誌『文藝春秋』の1997年7月号から2001年9月号に連載され、2001年9月に単行本化された『文士の逸品』を基に、出版元の文藝春秋の了解・協力を得て再掲載したものです。