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瀕死の文豪・夏目漱石を見守った小さな硯【文士の逸品No.01】

◎No.01:夏目漱石の硯

夏目漱石の硯(修善寺・菊屋旅館蔵、撮影/高橋昌嗣)

文/矢島裕紀彦

年来の胃腸病に悩まされていた夏目漱石が、伊豆修善寺温泉を訪れたのは明治43年(1910)8月6日。東京・内幸町の長与胃腸病院での2カ月近くにわたる入院生活を終えて、なお、しばしの転地療養を進められた結果であった。

漱石門下の俳人で宮内省づとめの松根東洋城が、ちょうどこの時、北白川宮のお供で修善寺・菊屋旅館に逗留することが決まっていた。どうせなら同じ宿に療養の地を選び、折々には年若い友人と物語などして俳句でもひねろうか。そんな思いを抱いていたのだろう。この修善寺行きに際して、漱石は東京から硯や筆を持参した。

手紙好きで、把握されているだけで生涯に2500通を超える書簡をしたためた漱石だから、例の達筆の墨文字で友人知己に手紙を書き送ってやろうという意識も、頭の隅には有していたのかもしれない。

だが、この硯は本来の役割をほとんど果たさなかったらしい。修善寺到着の翌日から漱石の胃の変調著しく、苦痛は増すばかり。24日には大吐血。危うく死の淵へ落ち込みかけた。一命を取り留め特製の輿(こし)に担がれて帰京するのは、10月11日のことだった。

縦14センチ、横8センチ。漱石の創作活動の一大転機とも称される「修善寺の大患」を主人の傍らで過ごした小振りの硯は、菊屋旅館女将の野田みど里さんのもとに大切に保管されていて、文豪のありし日の呼吸の一端を現代に伝えてくれた。

夏目漱石(なつめ・そうせき、1867~1916)
東京都生まれ。東大英文科卒。松山中学、熊本五高の英語教師を経て、英国へ留学。帰国後、東大講師を務める傍ら、亡友・正岡子規が主宰していた雑誌『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を発表、世間から大いに注目を浴びて作家活動への足掛かりをつかんだ。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。『サライ.jp』で「日めくり漱石」「漱石と明治人のことば」を連載した。

写真/高橋昌嗣
1967年桑沢デザイン研究所 グラフィックデザイン科卒業後、フリーカメラマンとなる。雑誌のグラビア、書籍の表紙などエディトリアルを中心に従事する。

※この記事は、雑誌『文藝春秋』の1997年7月号から2001年9月号に連載され、2001年9月に単行本化された『文士の逸品』を基に、出版元の文藝春秋の了解・協力を得て再掲載したものです。

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