文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「親があっても、子は育つ」
--坂口安吾

昔からの俚諺に「親がなくても子は育つ」というのがある。これを踏まえて、作家の坂口安吾は、「親があっても、子は育つ」という逆説的な言辞を口にした。親の存在などというものは、突きつめれば、その程度のものだというのである。無頼派ならではの些か自虐的な名言というべきか。

坂口安吾は新潟県下有数の政治家の五男だった。本名は、炳五(へいご)という。ヘイゴの音は丙午に通ずる。生まれ年の明治39年(1906)は干支にあてはめると丙午(ひのえうま)にあたり、しかも5番目の男の子として誕生した。そんなことからの命名であったと思われる。

一方、ペンネームの「安吾」は、中学時代のある出来事に由来する。ある日の授業中、漢文の教師が、「炳五の炳はアキラカという意味なのに、おまえはまるでその逆。今日からは暗吾と名乗れ」と言って、黒板に「暗吾」と大書した。随分な言い種だが、本人は動じない。却って、この「暗」の字を「安」に入れ換えて坂口安吾とした、というのである。

そう。安吾は、中学時代から並みではなかった。半ば自ら望んで放校処分となり、去り際、学校の机の蓋裏にこう彫りつけたとの伝説もある。

「余は偉大なる落伍者となって、何時の日にか歴史の中によみがえるであろう」

いやはや、なんとも、奮ってますなあ。

そんな安吾が46歳の夏、子供を授かった。綱男と名づけた。命名の苦労について、安吾はこう語っている。

「小説の作中人物とちがって平凡でないとこまる。私の本名が炳五といい、故郷の呼び方で一般にヘゴとよばれるのが非常にイヤだった。その記憶があるので、名前でイヤな思いをさせたくないと考えて苦労した」(『人の子の親となりて』)

確かに奇をてらってはおらず、平凡といえば平凡だが、妻の三千代に「豊かに育てたい」と語っていたという父としての思いが、強さや絆を連想させる「綱」の字に込められている気がする。掲出の「親があっても子は育つ」という言葉とは裏腹の、いっぱいの愛情を感じさせる。いや、もしかすると安吾は、名づけこそが親の果たすべき最大の役割、あとはどうとでも育つ、育ってくれと、願っていたのだろうか。

後年の安吾は、こんな言い方もしている。

「われわれは、めいめいが、めいめいの人生を、せいいっぱいに生きること、それをもってみずからだけの真実を悲しく誇り、いたわらねばならないだけだ」(『恋愛論』)

簡便と実用を眼目とし、全生活を能力主義に塩梅する。安吾はそんな戒律を自らに課し、屋敷や家財道具、さまざまな衣類や書画骨董などは、自由人の足元をさらい心情を曇らせるとして、必要最低限のものしか身辺に置かなかったという。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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