文/一乗谷かおり
猫の出陣式――といっても、おとぎ話や昔話の類ではない。昭和30年代の日本で実際にあった話だ。
昭和36年6月のよく晴れた日。宇和島の三間小学校の校庭に市長や市民、児童たちが揃い、「猫の出陣式」が大真面目に挙行された。この時、県下の山間部の町や村から集められた子猫の数は3600匹(これ以前にも募集があり、総数は4392匹)。地元の子供たちから鰹節や花束を贈呈された子猫たちは、宇和海地方の島々に住む人々を救うべく、士気も盛んに海を渡っていったのだった。
いったいなにがあったのか?
実は当時、愛媛県の宇和海地方の沿岸部や島々は、ねずみによる深刻な被害に悩まされていた。
ことの発端は、昭和24年にこの地方で勃発した「ねずみ騒動」だった。昭和24年から10年以上に渡って、宇和海地方でねずみが異常繁殖し、人々の生活を脅かした。特に、戸島、日振島といった宇和海の島々の被害は深刻で、世界的にも類を見ない数のねずみに食糧は食い尽くされ、日常生活もままならない状態に陥った。昭和24年~36年までの辺り一帯の村や町の被害総額は当時の金額で4億8694万3000円にものぼったというから、被害の甚大さが伺える。
宇和海の島々は、人以上にねずみにとって住みやすい環境だった。古くから島に伝わる「ねずみ祈祷」の風習が昭和初期まで残っていた戸島の場合、平地の耕作地はほとんどなく、200メートルの山の急斜面に石垣を積んだ段々畑が作られ、主にサツマイモや麦が耕作されていた。「ねずみ騒動」に詳しい郷土民俗研究者の宮本春樹さんは、こうした諸々の条件がねずみの異常繁殖を招いたと語る。
「ねずみたちにとって、島民が苦労して育てた農作物は栄養豊富な食糧となり、石垣や竹などの防風林の根元は格好の棲みかになりました。温暖な気候も手伝って、島の人々が気づいた時には手に負えないほどの数のねずみが繁殖していたのです」
島々に繁殖したねずみの種類は主にドブネズミ。雌は約21日の妊娠期間で10匹ほどの子を産み、翌日からすぐに繁殖を始める。生まれた子も約20日もすると一人前になる。平均体重は370グラム、体長21.7センチ(尾は含めない)ほどで、大きな個体ともなると体長30センチにも及んだ。
416戸、2524人の戸島には、最初の数年の観測で50万匹以上の生息と推定された。戸島の住民ひとりに対し200匹ものねずみが生息していたことになる。外を歩けばねずみを踏んでしまうほど、至るところにねずみが跋扈していた。巨大なねずみたちによって、麦は青いうちに食われ、トウキビなども種のうちに食われる始末で、作る意欲も失せた。なにせ、ねずみは1日に体重の三分の一の食べ物を食べる。毎日62トンもの食糧が島から消える計算だ。人間はねずみの残したものを食べるくらいの生活が続いた。
島を捨てて逃げることを考えた人達ももちろんいた。この地方には昔から、折に触れてねずみの異常繁殖があったといわれており、過去に「ねずみにくれてやった」という島もある。戸島の西端にのびる長崎鼻の西に浮かぶ小島には、かつて、ねずみの被害に苦しんだ際、「ねずみが人間の食糧を荒らすのは、人間だけ耕作地があって、ねずみには食糧を作る耕作地がないからだ」と村人たちが話し合いの末、小島をねずみに与えたという言い伝えがある。戸島から約5キロ南にある黒島も、かつては耕作が試みられたが、その都度、ねずみの被害に遭い、とうとう人間が根負けして放棄された島だ。
県や全国の大学などのねずみの研究者の力も借りて、駆鼠剤、毒餌、わな、ぱちんこと地元の人々が呼ぶねずみ取り機などを使い、人々はありとあらゆる方法でねずみに対抗した。中には夜通し畑で火を焚いたり鳴り物で音を出したりしてねずみを追い払おうとした村人もいたが、ねずみの驚異的な繁殖の勢いには敵わず、いずれもむなしい努力に終わった。
「専門家にアドバイスので導入されたのが、ねずみの天敵となる動物たちを島に放つという作戦でした」
宮本さんによると、昭和26年から翌年にかけてヘビ(アオダイショウ)191匹。昭和32年から5年間に渡ってイタチ156匹が各地から集められ、戸島をはじめとする島々に放たれた。しかし、ヘビは1匹ねずみを食べると1週間は捕食しないし、イタチはねずみ用の毒餌で死んでしまったり、いつの間にか姿を消していなくなってしまったりしたという。
最後の切り札として登場したのが、猫だった。「子ネコ一万匹動員運動」と銘打って、1匹20円の謝礼金で県下から子猫を募集。昭和34年に492匹、昭和35年に300匹、昭和36年には3600匹、合わせて総勢4392匹もの猫が人々の期待を背負って一挙に島々に送られた。これだけの数の猫が大移動したのは、世界的にも初めてのことだったという。
ちなみに、なぜ子猫が集められたかというと、飼い主から餌をもらうことに慣れたおとなの猫よりもねずみの捕獲を学習させて仕込むことができると考えられた上、大量に集めても送りやすかったからだ。
ねずみ退治へと華々しく送り出された猫たちは、島々の家に分配された。古来、ねずみの天敵といったら、なんといっても猫である。へびやイタチよりも活躍するであろうことが期待された。
ところが――。島の巨大なねずみたちを前に、子猫たちはしり込みした。中には果敢にねずみと戦い、首尾よく獲物を捕らえた勇者もいたが、ほとんどの子猫たちが自分の体よりも大きなねずみの前に敵前逃亡してしまった。
「なにせ、宇和海の島々はいりこ(煮干し)の生産が盛んで、浜に出れば釜茹でしたいりこが大量に干されていましたからね。わざわざおっかないねずみを捕まえなくても、猫たちの好物が目の前にあったのです」(宮本さん)
猫たちの奮闘もむなしく、ねずみたちは相変わらず島の食べ物を食い散らかしていた。猫頼みでもねずみに打ち勝てなかった人々は絶望した。
が、しかし、折しもその頃は戦後の経済復興で日本全体が活気づいていた時期だ。島の若者たちは都会に就職し、島に残った親たちは子供たちからの仕送りで暮らすようになった。ハマチ養殖が始まり、段々畑を耕す者がいなくなると、ねずみたちは食糧不足に陥った。食べ物のなくなった島々を見限ったねずみたちは、海を泳いでどこかへ行ってしまった。
そうしてねずみ騒動は自然と終息を迎えたのだった。
宮本さんは語る。
「幸か不幸か、今ではかつてこの地方を揺るがしたねずみ騒動の話を知る人も少なくなりました」
5000年に渡って続いた、人間のために猫がねずみを捕える時代も終わった。宇和海の島々に送り込まれた4392匹の猫たちは、日本史上最後のねずみ駆除の戦士たちとなったのではないか。
時代は変わり、今は、一緒にいてくれるだけでいい家族となった猫。猫たちにとっても、ねずみたちにとっても、良い時代になったのかもしれない。もう獲物をもってきてくれなくていいからね、と猫にお願いしたいくらいのものだ。
写真・映像資料提供/宇和島市教育委員会
文/一乗谷かおり
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