文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「吾がために死なむと言ひし男らのみなながらへぬおもしろきかな」--原阿佐緒
美貌の女流歌人・原阿佐緒が歌集『涙痕』のなかにおさめた一首である。「君のためなら死んでもいい」と自分に言い寄ってきた男たちが、みな命を長らえて、自分の側を離れ元気で暮らしている、面白いものね。斜に構えそう言い放つのだから、なんとも妖艶な悪女の香りが漂っている。
原阿佐緒は明治21年(1888)、宮城県黒川郡宮床村の素封家の娘として生まれた。豊かな環境と両親の愛情に包まれ、幼い頃から漢学や絵画を習ったという。宮城県立高等女学校に優秀な成績で入学するも病気のため中退。療養期間を経て、日本美術学校から奎文女子美術学校へ進み絵画を学んだ。この間、日本美術学校の教師・小原要逸との間に子をなし結婚をしたが、小原には既に妻子があって離別に至るという哀しみを味わってもいる。
阿佐緒が短歌を読み始めたのもこの頃で、与謝野晶子に認められていよいよ作歌に励み、その後「アララギ」に入会して斎藤茂吉や島木赤彦の指導を受けた。
阿佐緒が、同じアララギ派の歌人の石原純と初めて会ったのは、大正6年(1917)の12月だった。石原純は阿佐緒に思いを寄せ、熱烈に迫ってくる。押し切られるように、やがて原阿佐緒もこれを受け入れていく。大正10年(1921)7月には、とうとう新聞にこんな見出しが踊ることとなった。
「病気 職に堪えずとて、辞表を提出した石原博士、原阿佐緒女史との経緯が直接原因」
当時40歳となる石原純は、東北帝大で教授をつとめる高名な物理学者でもあり、何より妻子があった。その彼が大学教授の職をなげうち、妻子とも別れ、原阿佐緒との恋に走ったのである。世間が騒ぎ立てぬはずはなかった。事実とは裏腹に、原阿佐緒が世界的な物理学者を誘惑した悪女のように指弾する声がほとんどだった。
宮城を離れたふたりは千葉県保田に移り住み、海岸沿いに愛の巣を構えた。だが、破局は案外早くやってくる。昭和3年(1928)9月には、原阿佐緒は保田を去り帰郷。その後は、酒場のマダムや女優業も体験した。
残された短歌に、時として破滅的哀愁と偽悪的自己顕示が宿るのは、恋愛や結婚で味わった空虚な哀しみが関係しているのだろう。
「夏の虫死をたのしめるごとくにも火に身を投ずわがごとくにも」
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。
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