今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「行くに径(こみち)に由(よ)らず」
--諸橋轍次
辞書や事典の編集というのは、時日を要する仕事である。こつこつと地道に進めるしかない。私自身、かつて、20世紀に話題となった「時の人」6千人余りを収録する『現代日本人物事典』の編集に携わったことがある。関連人物まで含めると、登場するのは約2万人。ページ数1300余。執筆者数250 人以上。なかなか手応えのあるプロジェクトだった。
もちろん、上には上がある。
たとえば、漢学者の諸橋轍次が編纂した『大漢和辞典』。全13巻で総ページ数1万5千。50万にも及ぶ語彙を網羅する。これは『康熙字典』の4万7千字を凌ぐ。
『康熙字典』といえば、中国清代に編纂された、もっとも権威ある字書といわれるもの。夏目漱石も書斎に蔵していて、小説『こころ』の単行本の装幀を自ら手がけたとき、その題箋にも『康熙字典』の「心」の項を用いたという逸話がある。
その『康熙字典』を凌ぐほどであるから、『大漢和辞典』全巻の刊行が成るまで、30年以上の歳月を要した。まこと、一大事業であった。
諸橋轍次は明治16年(1883)、新潟県の生まれ。『大漢和辞典』の編纂に取り組みはじめたのは昭和3年(1928)、46歳の頃。版元たる大修館の社長の鈴木一平から熱心な要請を受けたことから、話は始まっていく。
当初の出版社側の企画は、厚手の一冊本の辞典を刊行することだった。だが、中途半端な仕事を嫌った諸橋轍次は、高過ぎるほどの目標を提示して鈴木社長の了承をとりつけ、自らを鼓舞しつつ仕事に奮励していく。
その間、幾多の困難に直面した。顕著な例が、戦時中、昭和20年(1945)3月の東京大空襲。膨大な資料の収集から積み上げて、ようやく出来上がった全巻の組版が、出版社の社屋ごと灰塵に帰した。かろうじて田舎に疎開させていて焼失をまぬかれた3部の校正刷りをもとに、諸橋はもう一度整理を進めていった。
白内障で右目を失明、左目も著しく視力が低下する中での、執念としかいいようのない作業だった。昭和35年(1960)5月、『大漢和辞典』刊行完結。諸橋、78歳となる目前のことだった。
掲出のことばは、諸橋轍次の座右の銘。もともとは『論語』雍也篇にあるもの。ものごとに取り組むときは、近道を求めて小路に入り込んだりすると却って行き詰まる。堂々と一歩一歩、大道を歩むのが一番だという意味。諸橋の仕事ぶりは、まさにこれを貫いたものであった。
私は以前、新潟県・下田村にある諸橋轍次記念館を訪れ、諸橋が向き合っていた大漢和辞典の校正刷りを見せてもらったことがある。黄ばんだ用紙上の活字の棒組に、丹念に書き込まれた博士本人による訂正の朱筆。その一字一字からも、その志が伝わってくるようであった。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。