文・写真/編集部
京都の北洛・嵯峨野の地の一画にひっそりと佇む遍照寺(へんじょうじ)は、真言宗御室派の別格本山に列せられる、長い歴史に彩られた由緒あるお寺である。
平安中期の989年に、宇多天皇の皇孫にあたる寛朝僧正によって創建された同寺は、一時は壮大な伽藍を擁する大寺として栄えた。風光明媚な現在の広沢池も、もとは遍照寺の境内の一部であり、嵯峨富士とも称される対岸の山(遍照寺山)とあわせて広大な寺域を形成していた。一帯は古くから観月の名所として知られ、西行をはじめ多くの歌人によって歌に詠まれてきた。
かの『源氏物語』の作者・紫式部にまつわる、こんな逸話もある。
紫式部が20歳の頃、寛朝僧正の従兄である村上天皇の子であった具平親王が、大顔という雑仕係の女性を伴ってお忍びで遍照寺を訪れたところ、月を見ている間に、大顔のほうが物の怪に取り憑かれて急死してしまう、という衝撃的な事件がおきた。そして、この出来事をもとに構想されたのが、名高い源氏物語の第四帖「夕顔」の物語とされているのだ。
いまも広沢池のほとりに佇めば、平安貴族が月見を楽しんだ往時の眺めを感じとることができる。
繁栄をきわめた遍照寺だが、開山の寛朝僧正が没すると次第に寺勢は衰微していった。鎌倉時代に後宇多天皇の庇護によって一時的な復興をみるが、衰退の道には抗えなかった。
吉田兼好も『徒然草』第百六十二段に、当時の遍照寺にまつわるこんな逸話を書き残している。
遍照寺の僧が、堂内に餌を蒔いて鳥をおびき寄せ、戸を閉めて閉じ込め、捕らえて食べようとしていたが、それを村の男たちに発見されて捕らえられ、役所に突き出されて禁固刑に処せられた……という、なんともあわれな逸話である。
■戦乱を奇跡的に生きのびた2体の平安仏
衰微の道を辿っていった遍照寺は、その後、室町の世になって決定的な打撃を受ける。応仁の乱によるものである。伽藍も、仏像も、寺宝の数々も、戦火によりことごとく灰燼に帰し、寺は廃墟と化した。
しかし、そんな中で奇跡的に生きのびた2体の仏像が、いまも遍照寺に残されている。本尊の「十一面観音菩薩立像」と、「赤不動明王坐像」で、いずれも重要文化財に指定されている。
「十一面観音菩薩立像」は創建当初の頃に、名高い仏師・定朝の父または師とされる康尚(こうじょう)によって作られたと伝わる、ヒノキの一木造の立像である。穏やかな表情と浅く掘られた衣紋の線が、柔和で和やかな雰囲気を醸し出す、優美な傑作である。
もう1体の「赤不動明王坐像」も康尚の作とされ、こちらも憤怒の表情のなかに優美さが漂う。実はこの像は、成田山新勝寺にある一木造りの不動明王像(成田不動尊)と同じ木から掘り出された、いわば一木二体の兄弟仏なのだという。「広沢の赤不動さん」として地元でも厚い信仰を集めており、毎年正月に行われるご祈祷には多くの信者が集まる。
戦乱による荒廃によって、廃寺に近い状態が続いた遍照寺は、やがて江戸初期になって、元々の境内の南側にあった仁和寺の塔頭のひとつに移転し、現在に至っている。
境内には今も、かつて仁和寺と大覚寺がテリトリーを競っていた頃の“境界”を示す石碑が残され、この寺の経てきた長い歴史を感じさせる。
【遍照寺】
■住所:京都市右京区嵯峨広沢西裏町14
■拝観時間:10:00~16:00(拝観料金:500円)
■公式サイト:http://www.eonet.ne.jp/~henjouji/
■アクセス:嵯峨嵐山駅から徒歩15分
取材・文/編集部
※遍照寺蔵「十一面観音菩薩立像」(重要文化財)は、2018年1月16日(火)~3月11日(日)に東京国立博物館 平成館(上野公園)で開催される特別展「仁和寺と御室派のみほとけ-天平と真言密教の名宝-」に出陳されます。