サライ世代の範とすべき人生の先達の生き様を毎号お伝えしている『サライ』本誌連載「サライ・インタビュー」。2018年新春企画として、昨年本誌に掲載されたインタビューの数々を紹介する。

原田哲子さん
(はらだ・てつこ、アマチュア卓球選手)

――55歳で卓球を再開。世界ベテラン卓球選手権で5度優勝

「主人に先立たれ、子供は独立。ひとりぼっちになった不安を卓球が救ってくれました」

撮影/宮地 工

※この記事は『サライ』本誌2017年11月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工)

──82歳で現役の卓球選手です。

「地元の柳井市(山口県)や中学校の体育館で、週5日ほど仲間たちと練習し、さまざまな大会に臨んでいます。卓球は、リズムと音がいいですね。ネットを挟んでボールが行ったり来たり。勝てばまた楽しくなるし、さらに頑張れば優勝というご褒美もついてくる」

──国内のみならず世界で戦っています。

「去年(2016年)の5月、スペインのエルチェ・アリカンテで開催された世界ベテラン卓球選手権の女子ダブルス80~84歳の部で優勝しました。

パートナーは、愛知県一宮市の長瀬ちづ子さん。一歳下の彼女と組んで、これまでにドイツのブレーメン、ブラジルのリオデジャネイロ、スウェーデンのストックホルムでの大会で優勝しましたから、ダブルスは4回目の優勝です。平成22年にモンゴルで開催された大会では、シングルスでも優勝しました」

──卓球を始めたのはいつ頃ですか。

「中学校に入ってからです。生まれは、今住んでいる柳井市から西へ10㎞ほど離れた熊毛郡三輪村で、父は村長を務めていました。私が中学に上がる少し前、三輪村と近隣の3つの村が合併して大和村になり、できたばかりの大和中学校に進学すると、校舎を新築した時の余りの木材で作った卓球台が、校舎の間にたくさん置かれていました。休み時間には、みんながそれで遊びました。友達と一緒にボールを追いかけるのが楽しかったんでしょうね。校内の卓球大会に出てみたら、優勝してしまったんです。

初めて卓球をする時、たいていの人は、ラケットの面を地面とほぼ直角にし、後ろから前方へ振ってボールを打ちます。自然と、そうなるんです。ところが私は、最初からいわゆる“カットマン”でした。打ち返す時、ラケットを上から斜め下方向へ振り、ボールを切るように回転をかけるのです。そうするとボールが変化して弾み方も違うので、相手はついてこれません。

男の子や上級生も負かしての優勝でした。それから卓球部に入り、本格的な練習を始めました。卓球部では、大学を卒業したばかりの新任でやってきた卓球経験のある先生が、指導をしてくれました」

──賞状を綴じた冊子がありますね。

「父が残してくれた宝物です。私が中学校で卓球を始めて以来、高校、実業団と、さまざまな大会でいただいた賞状の写しです。本物の賞状は学校や会社に収めてしまうので、その写しを父が手書きでこしらえてくれました。これを見ると、県の中学校体育大会で個人と団体で優勝し、“ぜひ、うちに”と柳井高校へ引っ張られ、高校時代に国体で優勝したことを思い出します」

──マツクアーサーの名前の入った賞状は?

「当時はまだ占領軍の統治下の名残で、マツクアーサー元帥杯記念全国都市対抗競技大会というものがあったんです。私は昭和28年、高校3年生の時にその第7回大会へ、柳井町(現柳井市)の卓球の代表メンバーのひとりとして参加しました。大会までは毎日夜9時頃まで練習をし、時には友達の家に泊めてもらったりして楽しかったですね。柳井は東京や京都を破り、第一位になることができました」

──卓球を通して視野が広がりますね。

「夜汽車に揺られて初めて上京したことも鮮明に覚えています。まだ食糧不足の時代で、それぞれが自分の食べる分のお米を持っていきました。汽車の中では、4人掛けのボックス席に板を3枚ほど蛇腹のようにつなげると、ふたりがその板の上に寝て、ひとりは下の座席の間で寝ました。石炭を焚いて煙を吐きながら走る蒸気機関車でしたから、明くる朝はみんなの鼻の穴が真っ黒になってね(笑)。初めて見る東京は、ものすごい都会でびっくりしました。ユニフォームは有り難いことに、高校の卓球部の顧問の先生の奥様が縫ってくださいました。当時はそんな家族的な雰囲気がチーム全体にありました」

──高校卒業後は実業団に進まれたのですか。

「本当は大学に行きたかったんです。関西のあちこちの大学から誘いもありましたが、父が許してくれませんでした。私は7人兄弟の末っ子で、8番目の子のお産で母が亡くなり、母親の顔を知らずに育ちました。そんなことから、父は私をとても可愛がってくれましたので、それだけに遠くにやりたくなかったのでしょうね。

帝人の岩国工場に就職すると、事務職をしながら卓球を続けました。この実業団の時代にも2度、国体で優勝を経験しました。先輩には田中良子さんとか、田坂清子さんといった世界大会で活躍するような選手がいました。私も“7万円の遠征費用さえ出せば、いつでも世界選手権に出場できるよう推薦するよ”と言われてました。父はその頃は村長の仕事を引退していたので、一度だけ長兄に相談しましたが“嫁入りに必要な資金だよ”とやんわり断られました」

──それで、まもなくご結婚された。

「昭和32年に21歳で結婚しました。主人は山口銀行の行員でした。私の兄のひとりが銀行に勤めていて“こういう人がおるけど、どうかね”と紹介されたのです。結婚と同時に、仕事も卓球もやめました。まだ古い時代と考えでしたから。“女の幸せを選びなさい”という父の言葉もありましたし、夫の両親も家のことに専念してほしいという気持ちがあったようです。

結婚後すぐに西日本の卓球大会があったのでちょっと覗いてみたいなと思い“お母さん、今日買い物に出ようと思うんですけど”と言ったら“今日は買い物せんと、これとこれをしてね”と言われて、家から出してもらえなかった。翌年には長男が生まれ、その後は大阪に転勤で、慣れない都会暮らしが始まりました。そこからは転勤族で引っ越しも多かったですし、とても卓球をするどころではありませんでした」

──卓球を再開したきっかけは。

「昭和61年に、主人が57歳で亡くなったのです。その時、私は51歳でした。哀しみのうちに一周忌、三回忌と続き、私はともかく子供たちを片づけるまでは、と気を張っていました。そうして、息子と娘が結婚して家にひとりぼっちになった時、ぽっかりと穴があいたようになってしまった。“さあ、これから何しようか”と思い、不安でした。

最初は『福が来る』ということでフクロウの置物を集めたりもしましたが、それだけでは仕様がない。何か運動でもしようかと思い、高校の2年先輩で市内でスポーツ用品店を経営している方を訪ねました。“なにしとって?”と訊かれたので“寂しいで何かやんなきゃね”と答えると“柳高(柳井高校)OBの後輩たちが、中学校の体育館で卓球の練習しとるよ”と教えてくれたんです。それで一度見に行ったら、みんな楽しそうにやってるんです。“へえ、これもいいかな”と思い、私も仲間に入れてもらい卓球を再開しました。55歳の時です。

この時、ラケットの持ち方をシェークハンドに変えました。握手する(シェーク)ようにラケットの柄を握るんですが、私は若い頃はずっとペンホルダーというペンを持つ時のような握り方だったので、ちょっと変えてみようかなと思ってやってみたのです。だから、その後の卓球はまったくの我流です。

帝人に勤めていた時代にダブルスを組んでいた6つ年上の田坂清子さんと、駅のホームでばったり会ったのもその頃でした。“てっちゃん、なにしとるの。卓球やったら面白いよ”という言葉をいただき、背中を押してもらいました。いい先輩方に恵まれ、そういう出会いもあり、今日の自分があるのかなと思います」

──すぐに試合に出場したのですか。

「最初は、ぼちぼちとです。近場の試合にだけ出場しました。練習して力をつけ、平成7年、60歳になった頃から各地で開催される大会に毎月のように参加するようになりました。自分で荷造りをして、ひとりでどこへでも出かけます。ついこないだですが、和歌山県で大会があって皆さんは団体で行かれましたけど、私はちょっと申し込みが遅れてね。それでひとりで出かけ、勝つとまたひとりで帰ってきました(笑)。

“ひとりでよう行くね”とも言われますが、国内でしたら案内表示を見たり、周りの人に聞けば、どこへでも行けます。そうやって、全国各地の試合で出会ったお友達は宝物です」

──海外の大会に出始めたのはいつ頃ですか。

「平成8年、61歳の時に、ノルウェーのリレハンメルで開かれた世界ベテラン卓球選手権に出たのが最初です。この大会に誘ってくれたのも、帝人の先輩の田坂さんでした。

それからは、いろんな国に行きました。行った場所に印をつけた世界地図がトイレの壁に貼ってあるんですが、それを見た孫がびっくりしています。外国へ行く時は、その国のちょっとした挨拶の言葉くらいは、頭に入れていきます。バスを降りる時などにちょっとひとこと、カタコトですけど、お礼を言ったりしてね」

──病気をしている暇もありませんね。

「改めて考えてみると、これまで病気らしい病気もせずに元気でやってこられたのは、大会であちこち歩くのに忙しかったからかもしれません。来月はどこそこの大会に出るぞ、と決めたらそれに向けて準備をし、食事にも気を遣います。野菜はもちろん、肉と魚も毎日摂るようにします。好き嫌いはありませんし、食事の支度は全部自分でやります。

食を通して地域の健康を考える、食生活改善推進委員というのを長い間やっていましたし、料理は苦になりません。今も月に1回、老人給食で120食分のお弁当を作るボランティアを仲間とやっています。50歳を過ぎてからは、ビールもいただくようになったんですよ。350mlの缶ビール1本ですが、晩酌を楽しみにしています」

──卓球の試合で勝つ秘訣は。

「ボールをよく見て、動くこと。それから、大会が始まったら、対戦相手をよく観察することです。私はシード(※強い選手や、強いチームどうしが最初に対戦しないよう組み合わせること)されることが多いのですが、1回戦から、どんな選手がどんな卓球をしているのか観るようにしています。“あの人はああいうサーブを出すな”とか“あそこへボールを持っていくと不利になるな”とか、ライバルの分析をするわけです。

いざ試合となれば、瞬間、瞬間に判断して打っていきます。上から下に切るだけでなく、無回転のナックルボールを使ったり、横に回転をかけたり。後ろに下がって守りながら、下から上に大きくこすり上げてロビングボールを打ったりもします。頭と体の瞬発力、そして簡単に諦めない粘りも大切です。

都会と違い、ここは田舎で特別にコーチがいるわけじゃない。自分ひとりで考えてやるだけです。“こないだは、あそこへボールをもっていく攻撃ができなかったからいけなかった”とか、反省も多いです。“次はこうやって攻めてみよう”とかね。中学、高校時代は顧問の先生から卓球を教わり、とても厳しかったけれど、いろんなことを勉強させてもらいました。

今は田舎でコツコツですよ。ひとつひとつ重ねてきた結果が今なんじゃないかと。55歳で卓球を再開した時には、ここまでくるとは思ってもみなかった。『夢は努力次第で叶うもの』。私の座右の銘です」

──卓球と共に歩んできた人生ですね。

「主人とはちょっと早くにお別れしましたけど、そのあとの第二の人生は卓球です。“卓球が彼氏です”って、よく言うんですけど(笑)。周りの皆さんに支えられて卓球ができている。本当に感謝しています」

──今後の目標をお聞かせください。

「まずは来年6月、アメリカのラスベガスで開かれる世界ベテラン卓球選手権に出場することです。その先のことは、まだわかりません。昔、熊本に、95歳まで大会に出ていた女性がいらっしゃいました。ユニフォームを着て卓球台の前に立つとシャンとする、綺麗で可愛らしいお婆ちゃんでした。私もできるだ元気で卓球を続けられればと思いますが、こればっかりはわからない。でも、すべてはひとつひとつの積み重ねですからね」

●原田哲子(はらだ・てつこ)
昭和10年、山口県生まれ。大和中学校、柳井高校、実業団の帝人で卓球選手として活躍。国体優勝など輝かしい記録を残す。昭和32年、結婚と同時に現役を引退。銀行員で転勤族だった夫を支えながらふたりの子供を育て上げ、夫の死と子供の独立を経て、55歳で卓球を再開。以降、世界ベテラン卓球選手権大会で5度の優勝を果たすなど、国内外の大会で数多くのメダルを獲得している。

※この記事は『サライ』本誌2017年11月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工)

 

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