サライ世代の範とすべき人生の先達の生き様を毎号お伝えしている『サライ』本誌連載「サライ・インタビュー」。2018年新春企画として、昨年本誌に掲載されたインタビューの数々を紹介する。
中谷健太郎さん
(なかや・けんたろう、亀の井別荘相談役)
――さびれた温泉地を滞在型保養地に変革
「観光バスも宴会もいらない。“小さく”あることを由布院は選んだのです」
※この記事は『サライ』本誌2017年5月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/鳥井美砂 撮影/宮地 工)
──熊本地震で由布院も被害に遭いました。
「地震が起きた夜の9時過ぎは、ここ『亀の井別荘』も、大きく揺れました。僕は宿の敷地内に福岡から移築した『庄屋』と呼んでいる古民家におりましてね。そこは仲間が集うサロンのような場所で、演劇関係者や毎年夏に開催する湯布院映画祭のスタッフたちと呑んでいたところでした。そこへ突然、グラッときた。
建物の入口が崩れかけてきたので慌てて外へ逃げましたが、余震が続き、とても立っていられない。幸いお客様は無事でしたが、宿の配管などの設備がやられ、いまも修繕作業が続いています」
──『庄屋』も改築中です。
「建物が大きく傾いてしまいました。20年ほど前に建築家の坂茂さんが手がけてくれた自宅が隣り合っており、そのご縁で併せて改築してもらえることになりました。そうしたら、新しいことに挑戦する気力が湧いてきましてね。もっとよいものに作り上げてやろう、と。
2階の床の一部を取り払って吹き抜けにすると、床材を壁に張りました。古民家の床材ですから黒っぽい板壁になりましたが、黒澤明監督の映画に出てくる城や砦をイメージしました。そして、2階の壁一面を書架にしたのはショーン・コネリーが主演した映画『薔薇の名前』の舞台となる、修道院の図書室を思い描いたからです。映画の好きな場面からヒントを得ました。
いざ改築工事に取りかかると、お客様からの激励や地元の人の手助けもあり、また、厚みのある立派な板材を送ってくださった方もおり、僕の気分を後押ししてくれました」
──張り切っておられます。
「それは、昭和50年に起きた大分県中部地震を乗り越えた経験からです。このときは実際の被害以上に風評被害が甚大で、各旅館で予約の取り消しが相次ぎました。町の仲間たちと連日連夜集まっては“由布院は大丈夫だ”ということをどうやって全国へ知らせようかと知恵を絞りました。
僕はその以前から、旅館の親爺以外に音楽や映画のイベントを手がけてきましたが、それは宿泊客を宿の中に取り込むのではなく、由布院の町自体を楽しんでもらえるような観光を目指すべきだと言い続けてきたからです。その頃は耳を貸す人がいませんでしたが、この地震を機に“よし、みんなでやろう”と腹をくくったのです」
──具体的にどうされましたか。
「各旅館に食堂や売店を作り、日帰り入浴を始め、宿泊客以外でも旅館に立ち寄れるようにしました。そして仲間の協力により『ゆふいん音楽祭』や『湯布院映画祭』、牛肉をたらふく食べて大声で叫ぶという楽しいイベント『牛喰い絶叫大会』などを次々に始めると由布院への注目度も高まり、観光客が増えました。
町にも人が歩くようになり、地元の人たちとの交流も深まった。町をゆっくり見て回れるよう辻馬車も走らせました。40年以上経った今も、これらの企画は続いています」
──『亀の井別荘』の創業はいつ頃ですか。
「大正10年、祖父の巳次郎が小さな草庵を結んだことに始まります。祖父はもともと加賀の庄屋の家筋に生まれた人で、お茶、花、道具、庭、料理、芸事などに入れあげた趣味人でした。北大路魯山人好みの料亭を買い取った挙句に倒産し、流れ流れて別府に辿りついた。
そこで“別府観光の父”といわれる油屋熊八翁と出会います。ここで、これまでの文化道楽が役立った。たちまち油屋熊八の片腕になると、由布院に要人を招待する別荘を拓くよう任されました。それが『亀の井別荘』の前身です。
当時の由布院は別府の奥座敷ともいうべき温泉地で、鄙びた風情がありました。そこに“別荘”というぐらいですから、庭を作り、小川を引き込み、木を植え、茶室も構えた。犬養毅、大倉喜八郎、若槻礼次郎、北原白秋、田山花袋、菊池寛といった錚々たる方々がお見えになり、散策を愉しみながら、1週間ほどゆっくり滞在されたそうです。
その後は両親が引き継ぎ、昭和26年頃から旅館になりました。3棟の離れに6室という小さな宿でしたが親父が急に亡くなり、僕は昭和37年に東京から戻ると宿屋を継ぎました。28歳のときでした」
──東京では何をされていたのですか。
「東宝で助監督をしていて、稲垣浩監督の『日本誕生』や『或る剣豪の生涯』『旅姿鼠小僧』、獅子文六の小説を映画化した『大番』(千葉泰樹監督)などの撮影現場につきました。
入社は昭和32年です。黒澤明監督が作品を立て続けに発表し、松竹では大島渚監督が自由奔放な映画づくりであるヌーヴェル・ヴァーグを引き起こし、日活に石原裕次郎が登場した頃です。映画の全盛期でした。同時に60年安保闘争の真っ只中でもあった。一日中セットやロケ現場を走り回り、夜はデモに出かける毎日でした」
──監督にはならずに由布院へ戻られた。
「助監督になって3年目に結婚しました。嫁さんは東宝の演劇学校を出て、撮影所に配属された女優です。親父が亡くなったときは帰るべきか悩みました。“あと1〜2年すれば監督になれる”。そういう思いもあり、当初は家業の整理をするつもりでした。しかし、長年病弱だった父に代わって宿を切り盛りしてきた母を助けなければ、という気持ちもありました。
伯父で物理学者の中谷宇吉郎(なかや・うきちろう)に言われた“映画では限られた人にしか会えないが、宿屋では幅広い人に出会える”という言葉に押され、新婚間もない嫁さんを連れて由布院へ戻りました」
──宿を引き継いでからはいかがでしたか。
「日本中が高度経済成長に沸き返っていましたが、この田舎の温泉地には関係なかった。由布院を通る九州横断道路も全面開通し、それこそ車は数珠繋ぎでしたが、この盆地には降りてこない。日々、考えました。“由布院ではどんな観光が可能なのだろう?”
そのヒントを探るなかで、『由布院温泉発展策』(大正13年)という冊子を見つけました。祖父たちが、東京の日比谷公園などを設計した本多静六博士を由布院に招いたときの講演をまとめたもので、それによると、由布院が学ぶべき先はドイツの山間部に散在する温泉保養地だという。
そこで昭和46年に、同じ旅館仲間で『玉の湯』の溝口薫平さん、『夢想園』の志手康二さん(故人)を誘うと3人でドイツへ向かいました。お互い、宿泊客が少ないので旅費がない。それに、1ドルが360円の時代です。借金をして、なんとか旅立ちました」
──実際に見たドイツはいかがでしたか。
「ドイツでの白眉は、南ドイツのバーデン・ヴァイラーでした。当時は交通の便も悪く、人口わずか3000人ほどの小さな町でしたが、国際的な保養地としての名声がヨーロッパ中に鳴り響き、各地から大勢の人が保養に訪れていました。ロシアの作家・チェーホフもこの町にゆっくり滞在したそうです。
国際的な民間親善団体のお世話で、ドイツではごく普通の家庭に泊めていただき、食事の提供を受け、近所を案内してもらいました。何気ないことかもしれませんが、心のこもった温かいもてなしに感激しました。ここから次第に、『滞在型保養地』という由布院の未来図が見えてきた。
由布院は素晴らしい場所です。いたる所に温泉が湧き、自然豊かな景観がある。この町にゆっくり滞在し、土地の人と触れ合う。そんな保養地にしたい。
そのためには、続々と観光バスで来た人をエレベーターで客室へ運び、宴会で芸者をあげて大騒ぎするような当時の日本の温泉地とは一線を画すべきだ、と」
──そのためにどうされましたか。
「“小さく”あろうとしました。この小さな町にも、時代の流れでゴルフ場や大型ホテル、外資が入ろうとした。由布院町も昭和30年に湯平村と合併して湯布院町に、平成になるとさらに合併して規模を大きくしようとした。これでは、いけない。仲間と腕を組んで“大きな”力に立ち向かい、町を守ろうと活動しました。
しかし、合併は止められなかった。由布市となってから、誰が何をしている人なのかよくわからなくなった。人間同士が理解し合える町の大きさは、20分以内で歩ける範囲だそうです。この宿のあたりはかつて津江と呼ばれた集落で、歩けばすぐに知り合いと出会って挨拶ができた。“小さく”あることは何をするにもほどがよいのです」
──行動する原動力はなんでしょうか。
「僕は猪突猛進で、無責任な性格です。次に何を言い出し、何をするかわからない。喩えれば、お祭りでお神楽を奉じる際に演目の合間に何をやってもいい『チャリ』という道化の役割があるのですが、僕の存在はそれなんです。津江の集落の人は、僕が自由気ままな『チャリ』だとよくわかっています」
──宿の経営者としてはどうでしょうか。
「宿屋の親爺になるということはかくあれかし、きちっとすることだと思っていたこともありました。調理場の包丁の上げ下げにまで口を出し、挙句に板場と喧嘩。そのあと一緒に酒を酌み交わしてわかりました。現場のことは現場に任せよう。皆、ここで働く仲間じゃないかと。
本館と離れを合わせても20室足らずの小さな宿ですが、従業員は90名ほどいます。でも、常にこの人数が働いているわけではありません。必要なだけ、できる時間に働く、いわゆるワークシェアリングです。それぞれに家庭があり、地元の付き合いや個人の愉しみもあります。昇給と肩書が上がるだけが人生の成功ではないという職場にすると、お客様も気楽に過ごせる。それで採算が合うかどうかというのは、また別の問題ですが(笑)。
僕にとって『亀の井別荘』に集まってくれる人はみな仲間です。従業員も仲間。地元の人も仲間。宿泊客もお代はいただいているけれど仲間でありたい。
数年前に宿の経営を長男の太郎に任せました。仲間が来てくれるのは嬉しいのですが、僕は朝9時に顔を見せると、夜9時にいなくなります。すっと帰るから冷たいかといえば、案外、いなくなって皆がホッとしたりする(笑)。朝9時開店、夜9時閉店の“中谷商店”ですよ」
──これからは何をされますか。
「最近、思うようになったのですが僕の役目は場所を提供する『席亭』ではないか。考えてみたら、ずっとやってきたことなんですが、長い間迷い、そのことがよくわからなかった。自分が中心的な役割で、演出家やときには役者だと思ったりもしました。でも、仲間が集まる場を愉しませ、自由な空気が発散する場を提供する、いわば寄席の親爺ではないか。
難民救援活動をされている犬養道子さんが言われています。実のある議論ができるのは10人までだと。意思の疎通ができる最大の人数が10人で、そのひとりひとりにまた別の10人がいて、それで100人に伝わっていく。そうやってボランティアの輪を広げる。それは、僕がこれまで地域で活動してきたやり方とまったく同じです。
今後は建て替わった『庄屋』を、アートをはじめ本の朗読や落語を楽しみ、蓄音機を聞く仲間などが集まる拠点にするつもりです。この場所から、由布院に根付いた文化を次の世代へ広めていきたい」
──目標は寄席の席亭ですか。
「もっと気持ちがはっきりしたのは『ゆふいん文化・記録映画祭』の実行委員長で僕と地域運動をやってきた清水聡二君が55歳という若さで、今年、亡くなってからです。彼は夢を持ち、世界中をあちこち飛び回る鳥のような存在でした。僕は彼のような仲間が止まれる枝の役割をしてきたつもりですが、その枝はこれからも伸ばし続けないといけない。
ただ、いろんな鳥が飛んで来ても、僕はもう枝にはなれない。83歳になりましたし。では、何ができるのか。枝は枯れると土になります。すると根っこが土から栄養を吸って再び幹になり、伸びた枝に鳥が止まりに来てくれる。そうか、これからは土になればいい。懸命に土になろう。そう決めると、実に悠々たる気持ちになりました」
●中谷健太郎(なかや・けんたろう)
昭和9年、大分県北由布村(現・由布市)生まれ。明治大学商学部卒業後、東宝撮影所に入社。稲垣浩監督などの下で助監督を務める。昭和37年、父の死去により帰郷、旅館『亀の井別荘』を継ぐ。以降、由布院の地域づくりに尽力し、「ゆふいん音楽祭」「湯布院映画祭」「牛喰い絶叫大会」などのイベントや郷土料理の開発に携わる。湯布院町商工会長、由布院温泉観光協会長などを歴任。著書に『たすきがけの湯布院』『由布院に吹く風』ほか。
※この記事は『サライ』本誌2017年5月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/鳥井美砂 撮影/宮地 工)