今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「世間から何といわれても自分の思うところは一歩も枉(ま)げない、知己は百年の後に一人得ればよい」
--大倉喜八郎
大倉財閥の創始者の大倉喜八郎が、自身の処世観として述べたことばである(『致富の鍵』より)。自分の真意を理解してくれる者は、百年後にひとりいればいいというのだから、なんとも、強い覚悟があふれている。
大倉喜八郎は、天保8年(1837)越後国北蒲原郡の新発田(現・新潟県新発田市)に生まれた。大名主・大倉千之助の三男だった。
父親が学問好きだったため、喜八郎も9歳の頃から四書五経を学び藩塾で漢学を修めた。また、10代半ばからは狂歌を習得し、生涯の趣味とした。和歌廼門鶴彦(わかのもんつるひこ)という雅号も持っていた。
17歳で江戸に出て鰹節店に奉公したのち、19歳で独立し、現在の上野アメ横あたりに、間口二間の乾物屋「大倉屋」を開いた。この頃に自らの抱負を託して詠んだ狂歌が、「今日からはおぼこも雑魚のととまじり やがてなりたき男一匹」だったという。
もちろん、乾物屋で成功することが「男一匹」ではない。野心満々の大倉は、商売が軌道にのるや、新しい時代の波を読むべく、横浜へと出かけた。海岸通りで異国船から盛んに武器を荷揚げしている光景を見て、大倉にはぴんとくるものがあった。
「これからは武器が売れるに相違ない」
乾物屋を廃業した大倉は、早速、神田に銃砲店を開業。折からの戊辰戦争で、官軍に武器を売り込んで大儲けをした。彰義隊に呼び出されて斬られそうになったとき、「大倉屋は商人でございます。お金を頂戴致しますればどちらさまにもお売り致しますが、こちらさまはお金をお払いになりませんので、お売りしないまででございます」と啖呵を切ったという挿話も伝えられる。
背景には、おそらく、金のことだけでなく、理不尽な横暴をふるう旧武士階級への反発があったのだろう。まだ田舎に暮らしていた頃、大倉の学友の父が、藩の目付に言いがかりをつけられ、閉門謹慎を命じられたという出来事があった。道を明けて土下座する際、下がぬかるみだったため、下駄をはいたままでいたことが、「町人の分際で無礼千万」だとされたのだった。
大倉は明治維新後、見聞を広めようと、明治5年(1872)から1年半にわたって海外視察に出た。その際に岩倉使節団の要人たちの知遇を得た。このことが、西南戦争や日清・日露の戦役での、政商としての事業発展につながった。一方で、西南戦争の最中に朝鮮に大飢饉がおこって朝鮮政府から日本へ救援の要請があったとき、大久保利通から依頼を受け、命懸けでこの任をやり遂げてもいる。
その後は土木事業にも乗り出し、鹿鳴館や帝国ホテルの建設も手がけた。教育活動にも力を入れ、大倉高等商業学校(現・東京経済大学)や大倉集古館も設立した。
時として、デマやヤッカミをからめた批判の矛先が向けられることもあったが、大倉は、「およそ商売で一番大切なものは信用です。その信用を台無しにしてしまうようなことを一度でもしたら、今日の私はなかったはずです」と否定し、それ以上は多くを語らなかったという。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。