文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「日本人は研究心の強い、ものわかりのよい国民で偏見をもたない国民のようです。もし益があると思うならば、外国のものでも何でもこれを採り入れているのです」--J・C・ヘボン
掲出のことばは、米国人宣教医J・C・ヘボンが、母国の知人あてに書いた手紙の一節である(『ヘボン書簡集』高谷道男訳より)。
多くの西洋人が、日本人の西洋かぶれや物真似上手をからかったり軽視したりする傾向が見られる中で、ヘボンは日本と日本人に対し深い理解を寄せ、その長所や可能性に温かい目を向けていたことがうかがえる。
ヘボンは1815年(文化12)、米国ペンシルベニア州の敬虔なキリスト教信徒の家に生まれた。プリンストン大学とペンシルバニア大学で学んだあと、宣教医となった。医学の心得のある宣教師として、自身の天職を「医術をもって神に仕えること」と任じ、海外伝導を志したのである。
ヘボンがクララ夫人とともにはるばる海を渡って、日本の開港地神奈川に上陸したのは、1859年10月18日(安政6年9月23日)であった。
見慣れない西洋人を無闇に恐れたり警戒したりしていた日本人の気持ちを解きほぐしたのは、ヘボンの医術だった。漁師の眼病を目薬で治したことから評判が広がり、まもなく1日に100 人もの患者がヘボンのもとに押しかけるようになった。治療代は一切とらず、多くの手術もおこなった。だが、外国人が日本の庶民に接触することを恐れる幕府の役人によって、ヘボンの診療所はわずか5か月で閉鎖されてしまった。
とはいえ、西洋医学や先進的知識を学びとらねばならぬという時代の要請は幕府も認識しており、ヘボンとクララ夫人は多数の熟生を引き受けることになる。その中には、医師で兵学者の村田蔵六(大村益次郎)や、のちに蔵相・首相をつとめる高橋是清もいた。
ヘボンは一方で、日本最初の英語で書かれた日本語辞典(和英辞典)である『和英語林集成』を編集・刊行した功績でも知られる。
初版の刊行が実現したのは慶応3年(1867)。明治5年(1872)には改訂増補版を、明治19年(1886)には第3版を刊行した。ちなみに、この3版に用いたヘボンの考案になるローマ字が、のちにヘボン式ローマ字として普及するのである。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。