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棋士・升田幸三の快挙を知った母の意外なことば【漱石と明治人のことば253】

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今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「勝ったお前はええが、相手の人が気のどくのような気がする」
--升田幸三の母

将棋棋士・升田幸三の母カツノは、明治25年(1892)生まれ。昭和32(1957)年2月24日に65歳で亡くなっている。

カツノが亡くなった日、升田幸三は九段位のタイトル戦の第1局を塚田正夫と戦っていた。九段位は、名人位、王将位と並ぶ、当時の将棋の3大タイトルのひとつだった。

対局中、中盤の難しい場面で升田は妙に気分がふらつき、おかしな手を指してしまった。それがもとで、敗戦を喫した。対局終了後、升田に1通の電報が渡された。そこには「ハハシス」とあった。

升田の母カツノは、1年ほど前から病気がちで床に伏すことが多くなっていた。升田も遠からずこの日がくるのを覚悟していたものの、いざ現実となるとショックは大きかった。

あとで聞くと、升田がおかしな手を指してしまった時刻に、この電報が届いていたという。

カツノはもともとは裕福な家の出で、嫁入りするときにはひと通りの調度の他に、浴衣を70枚、同じ数の帯と下駄を持ってきたという。それらは、バクチ好きの夫のせいで、まもなくなくなってしまった。小柄で、やさしくて、働き者のカツノは、バクチ狂いの夫に代わって、田畑で働き、農閑期は行商にも歩いた。

夫のバクチで苦労しているから、カツノは勝負事そのものを好まなかった。息子が将棋指しになるのも反対だったが、本人が家出してまで志を貫いた。家出する際、升田幸三が母親の物差しの裏面に墨で書き残したことばは、「名人に香車を引いて勝つ」。

そして、そのことば通り、昭和31年(1956)1月、時の名人を相手に、香車を1枚落として勝つという空前の快挙を成し遂げた。

息子の快挙を知り、カツノが口にしたのが掲出のことば。嬉しくても手放しで喜ぶようなことはせず、つい相手の気持ちを慮ってしまうのである。

それから1年も経たぬうちにカツノは逝く。その哀しみを乗り越え、升田はその後4連勝して九段位を獲得。7月には名人のタイトルをも獲得し、史上初の三冠を達成した。母のカツノは、天上にのぼってまで、遠慮がちに微笑んでいただろうか。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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