■ホリデイ秘伝の隠し味

まったく同じことがホリデイの歌唱にも言えるのですね。ホリデイには、カリスマ性が際立つ鳥肌が立つような歌声の凄みと同時に、聴き手の心を穏やかに和ませる深いニュアンスに富んだ歌唱があるのです。そこに気がついてみれば、彼女のレコードが100万枚も売れたことは不思議でもなんでもなく、ごく自然なことだとようやく気がついたのでした。そしてこれこそが、彼女のジャズ・ヴォーカリストとしての「器の大きさ」なのです。

というわけで、ホリデイの「器の大きさ」の中身を点検することといたしましょう。

彼女のヴォーカルの特徴として、スキャットをしないという点が挙げられます。それと繫がりますが、一聴、さほど原曲のメロディを変えていないように聴こえるのです。ですから、あまりジャズ・ヴォーカルに馴染んでいないポピュラー・ファンも、さほど違和感なく彼女の歌に親しめるのです。そしてこれがミリオンセラーに繫がったのでしょう。しかしそれにもかかわらず、彼女はどこから見てもジャズ・ヴォーカリストである不思議が、ホリデイの魅力の秘密でもあるのです。

最初に答えを言ってしまいましょう。ポピュラー・ファンをも自然に巻き込む違和感のない歌唱に秘められた、じつに色濃いジャズ・テイストが、それこそ秘伝の隠し味が料理の味を決めるように、聴き手をジャズの世界に惹き込んでいるのです。

その秘伝の隠し味とは、まずはホリデイならではのずば抜けたリズム感です。リズム感というと、どうしてもバック・バンドが刻み出すテンポに正確に合わせられる才能と思いがちですが、ジャズの場合はちょっと違うのですね。ジャズならではの小気味よい「ノリ」の感覚は、じつをいうと微妙な「ズレ」から生まれるのです。

ホリデイは、歌伴の演奏にこころもち「もたれかかる」ようにして歌うことで、独特のリラックスした感覚を生み出しているのですが、これはリズム感がよいからこそできること。というのも、「もたれ」の程度がすぎれば、たんに「リズムに遅れている」という文字どおりズレた違和感をもたれてしまうからです。いわば「隠し味」も入れすぎれば「癖の強い料理」となってしまうのに似ていますね。

そして次の「隠し味」が、巧みな「崩し」です。先ほど、ホリデイはさほどメロディを変えていないように聴こえると書きましたが、じつは彼女ならではの感覚でメロディを微妙に崩し、つまりホリデイならではの味付けを加えているのです。第8号「ビリー・ホリデイ」でも披露したエピソードですが、大事なポイントなので再び紹介しましょう。ある作曲家がホリデイの録音に立ち会った際のことです。

「自分が作った曲とは思えないが、彼女の歌い方のほうがよい」と言ったというのです。

驚きですよね。「さほどメロディを変えていない」と思ったのは錯覚で、じつはホリデイは思いのほか大胆に原曲を改変して歌っていたのです。それが気づかれなかったのは、ひとえに「自然さ」でしょう。ホリデイは持ち前の優れた感覚で「改変」しているので、あたかもその楽曲ははじめからホリデイが歌ったように書かれていたと錯覚してしまうのです。とはいえ、改変は改変です。なぜするのか。ジャズ・ヴォーカルとはなにかをご存じのみなさんにはもうおわかりですよね。言うまでもなくホリデイならではの個性的表現を行なうためなのです。

結果として聴き手は、その自然で素直なメロディを何の抵抗もなく受け入れることで、まさにジャズ・ヴォーカルの世界に参入しているのです。歌の世界を楽しむことが、同時にホリデイの個性を味わい尽くす、ジャズならではの楽しみに通じているのです。ミリオンセラー歌手にして天性のジャズ・ヴォーカリストであるホリデイの秘密がここにあるのです。

>>次ページ「矛盾を孕む存在感」

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