今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「万能的なのは一心がかたまらぬせいか、心が籠もらないせいか、傑出するには足りなかった。それをみると、不器用の一心がかえって芸道のことには上達の見込みがあるか」
--高村光雲
上野公園の西郷隆盛像で有名な彫刻家の高村光雲は、嘉永5年(1852)江戸の生まれ。これはペリーの黒船来航の前年に当たる。
12歳で親戚の大工のもとに奉公に出るはずが、近所の床屋の口利きがあって直前に道を変じ、高村東雲のもとに弟子入りした。高村東雲は木彫で仏像を制作する、いわゆる仏師であった。中島光蔵という名前が高村光雲となるのも、この弟子入りの後の話である。
明治10年(1877)、光雲は、第1回内国勧業博覧会に師・東雲の名で出品した「白衣観音」で最高賞を受賞した。その後も当時隆盛だった象牙彫りなどには手を染めず、木彫に専心。苦労しながらも、仏教彫刻の伝統にヨーロッパの写実性を加えて、木彫の芸術性と近代性を推し進めていく。やがて、シカゴ万国博覧会で授賞した「老猿」や、パリ万博の金賞作「山霊訶護」などの作品で、世界的な評価を得るに至った。
高村光雲は一方で、後進の育成にも尽力した。岡倉天心の勧めにより東京美術学校(のちの東京芸大)の教壇に立って学生を指導する傍ら、次代の彫刻界を背負う米原海雲、山崎朝雲、平櫛田中といった内弟子を育てあげた。
掲出のことばは、そんな高村光雲が自著『木彫七十年』の中で述べたもの。晩年の内弟子の中に越前・三国出身の非常に器用な男がいたが、器用過ぎる上に商売っ気も盛んで彫刻家としてはものにならなかった。かえって不器用なくらいの門弟の方が、脇目もふらず一心に打ち込んで道を極めていった、というのである。
思えば、夏目漱石も、小説『門』の中で禅僧にこんな台詞を言わせていた。
「悟りの遅速は全く人の性質で、それだけでは優劣にはなりません。入りやすくても後で塞(つか)えて動かない人もありますし、また初め長く掛かっても、いよいよという場合に非常に痛快にできるものもあります。決して失望なさることはございません。ただ熱心が大切です」
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。