文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「自分は生きている。それが一切なのだ」
--椎名麟三

上に掲げたのは、作家の椎名麟三が、小説『永遠なる序章』の中に綴ったことばである。いかにも、「実存主義作家」と呼ばれた椎名らしいことばと言えるだろう。

椎名麟三は明治44年(1911)兵庫県の生まれ。15歳で家出。コック見習い、電車車掌などの職を転々とした。

非合法下の共産党員として労働運動に参加して検挙され、獄中生活を体験したこともあった。その獄中でニーチェを知り、ドストエフスキーへ導かれていく。

ドストエフスキーの小説『悪霊』を読んで打ちのめされ、文学の世界へ引き込まれた体験を、椎名は次のように綴っている。

「ドストエフスキーは、私にも文学がやれることをも保証してくれたのである。たとえ救いがなくても助けてくれと叫んだっていい、その叫びこそ文学なのだと教えてくれたのだ」(『わが心の自叙伝』)

椎名麟三はこの保証を胸に、敗戦後まもない時期に『深夜の酒宴』で文壇デビュー。以降、人間の自由を主題として、『重き流れの中に』『永遠なる序章』『自由の彼方で』などの作品を紡ぎあげていく。その作中には、観念的かつ意味深な一節が多く、たとえば、『深尾正治の手記』の中の次のような老爺の台詞なども胸の奥に深くしみいる。

「誰もだましはしない。だますのはいつも自分だ。そして大抵は自分の過去がだますんだよ。何も心配しないで、ありがたく今日の一日をせい一杯に過させて貰うんだよ。明日のことにはじっと辛抱して、昨日のことには用心深くな」

兵庫県姫路市の姫路文学館を訪れ、そんな椎名麟三が書斎で使っていたという鉛筆削りを見せてもらったことがある。下部の引き出しに残るかすかな削り滓が、作家の息づかいを伝えるかのようだ。

思えば、細密な創作ノートを含む椎名麟三の原稿は、ほとんどが鉛筆書きだった。会社や役所を訪ねてガリ版切りをする筆耕仕事の体験もあり、さらさらと万年筆を走らせるなどは性に合わなかったのだろうか。

いやいや、それ以上に、あのドストエフスキーばりの観念的文体は、ちびた鉛筆で一字一字を刻みつけていくことでしか生まれ得なかった。そんなふうに思えるのである。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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