今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「人間とは強いて苦痛を求めるものであると一言に評してもよかろう」
--夏目漱石
夏目漱石が小説『吾輩は猫である』の中に綴ったことばである。
小説中では、この場面、迷亭と独仙が床の間の前で対座して碁を打っている。猫の目から見ると、「広くもない四角な板を狭苦しく四角に仕切って、目が眩(くら)むほどごたごたと黒白の石をならべる。そうして勝ったとか、負けたとか、死んだとか、生きたとか、あぶら汗を流して騒いでいる」というわけ。
そして、猫はこんなふうに思う。
「碁を発明したものは人間で、人間の嗜好が局面にあらわれるものとすれば、窮屈なる碁石の運命は、せせこましい人間の性質を代表しているといっても差支ない。人間の性質が碁石の運命で推知する事が出来るものとすれば、人間とは天空海闊の世界を、我からと縮めて、己れの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように小刀細工で自分の領分に縄張りをするのが好きなんだと断言せざるを得ない。人間とは強いて苦痛を求めるものであると一言に評してもよかろう」
猫が感じる囲碁の見方には、囲碁ファンからすればもちろん異論はあるだろう。碁盤の上に無限の宇宙を観ずる棋士もいる。
漱石からしても、それは前段のたとえ話で、ほんとに書きたかったのは、「人間とは天空海闊の世界を、我からと縮めて」以下、掲出のことばに至る部分であろう。
核兵器などという物騒なものをこしらえて国と国とがせめぎ合い、あるいはまた、ひとつの国の中で血みどろの内戦を延々と繰り広げ、次代を担う子供たちまで犠牲にする。人間とはなんと愚かなものであるのか。
そういえば、映画監督の黒澤明も、生前、創作ノートにこんなことを書きつけていた。
「人間は幸せに生きることに頭を使うべきだ。ところが不幸になるために一生懸命頭を使っている。そのいい例が大量殺人兵器を作る競争をしている。そして地球を人間が生きていけない所にしようと骨を折っている。つまり自分がのっかっている木の枝を、ノコギリで切っているようなものだ。チンパンジーだって、そんなバカなことはしない」
先人たちの深い溜め息が聞こえるようだ。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。