文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです」
--夏目漱石
夏目漱石が大正5年(1916)8月24日付で、芥川龍之介と久米正雄宛てに送った手紙の一節である。芥川と久米のふたりは、この7月に東京帝国大学を卒業したばかり。一緒に千葉の一の宮海岸に避暑に出かけて同じ宿に泊まり、そこから漱石宛てにしきりと手紙を書き送っていた。この手紙はそれに対する返書の一通であり、
「この手紙をもう一本君等に上げます。君等の手紙があまりに溌剌としているので、無精の僕ももう一度君等に向って何か云いたくなったのです」
とはじまっている。芥川や久米の若々しい青春の気が、老境に入らんとする漱石に刺激を与え、若返ったような心持ちにさせていたのである。漱石が、同人誌に掲載された芥川の『鼻』を激賞して文壇デビューへの後押しをしてから、半年ほどが過ぎていた。
漱石は彼らに、「牛になれ」と説く。あせらず黙々と、「ただ牛のように図々しく進んで行くのが大事です」と説く。根気よく、うんうんと、死ぬまで押していけと励ます。
「決して相手を拵えて押しちゃいけません。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです」
人生山あり谷あり、思うに任せぬことも多い。誰か相手をこしらえて打ち負かそうとするのでなく、根気強く、自分という人間を押して、押して、押し通して、人生を渡っていけということだろう。
これは、若い門下生たちにぜひとも言い残しておきたいことば、ある意味では遺言のようなものではなかったか。そしてそれはそのまま、私たち現代人へのメッセージになっている。慈愛と教訓に満ちたやさしい言葉遣いの向こうには、肩肘はるのをやめて温和な表情で端座している漱石の姿が感じられる。
漱石はこの頃、髪も髭も白くなり体も弱ってきている。己の遠からぬ死も意識している。それは自ずと手紙文の行間にもにじみ、芥川はこの返書を受け取った直後、8月28日付の手紙でこんなふうに書かずにはおれなかった。
「どうかお体を大事になすって下さい。修善寺の御病気以来、実際、我々は、先生がねてお出でになるというと、ひやひやします。先生は少なくとも我々ライズィングジェネレエションの為めに、何時も御丈夫でなければいけません」
しかし、芥川たちのこうした願いも空しく、漱石は芥川の第一短編集『羅生門』が世に出るのを見届けることもなく、この年の12月9日、黄泉路をたどるのである。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。
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