「報酬は月二百円、ただし盆暮の賞与は頂戴致したく候」(夏目漱石)【漱石と明治人のことば339】

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文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「報酬は御申出の通り月二百円にてよろしく候。ただし他の社員並みに盆暮の賞与は頂戴致したく候」
--夏目漱石

夏目漱石は教職を辞して東京朝日新聞に入社する際、就職話の仲介役を担っていた門下生の坂元雪鳥を通じて、新聞社側と条件面の取り決めをおこなっている。

上に掲げたのは、その条件交渉の中で、毎月の給料とボーナスに関して記した一文である。家族を持つ実生活者としての漱石の人となりが窺える文章である。

ことの始まりは、明治42年(1907)2月20日の夜に、坂元雪鳥が漱石あてに書いた次のような手紙であった。

「少々御意を得たき儀これあり候間、参堂仕りたく存じ候えども、木曜多人数の中にては少々都合これあり候間、その外の日に何曜か三十分位御繰合せ拝眉相願え間敷哉(まじくや)」

大勢の人が集まっている木曜日では相談しづらい話があると説明し、それ以外の日の面会を求めたのである。

漱石からの返信があって、坂元は結局、2月24日の日曜日に漱石山房を訪れた。そこで坂元から漱石にもたらされたのが、朝日新聞入りの話であった。この頃の坂元はまだ東京帝国大学在学中で、そろそろ卒論にとりかかろうとしていた時期。他方で、坂元は東京朝日新聞にたびたび随筆を書き、社会部長の渋川玄耳を経る形で主筆の池辺三山とも面識があった。そのため、今回は池辺三山の意向を受けて、漱石邸を訪問したのだった。

その後の幾度かのやりとりを経て、だんだんと話は具体化していく。そうして、3月11日付の手紙で、漱石は掲出のように「月二百円にてよろしく候」と書くに至ったのである。

200 円という月給は、社会部長の渋川玄耳、政治部長の松山忠治郎らの月給を上回る金額だった。それでも、東京帝国大学、第一高等学校などの教壇に立ちながら執筆活動をしていた当時の漱石の総収入と、さほど隔絶した数字ではない。欲張って過大な要求をしているわけではなかった。

漱石は日頃から門弟たちに、金銭の奴隷になるな、金があるから人間が高尚だとはいえない、金を目安にして人物の価値を決めるわけにはいかない、などと教え諭す一方で、金銭の大切さも身にしみてわかっていた。

この頃、夏目家の経済は膨張していた。鏡子の実家や夏目の一族への援助が、漱石の肩にかかっていた。その上、前の養父の塩原昌之助からの金の無心にも悩まされていた。さらには、若い門弟たちのために何かと金を用立ててやることも多い。主人がそれなりの高給取りである割には、暮らし向きはつつましい夏目家だった。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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